水族館の音2

 時刻は午前十時三十分を少し過ぎた頃

 久我半紙は任海墨花が運転する車の助手席に乗っていた。

 天気は快晴。容赦ない日光がフロントガラスを突き抜ける勢いで照らしてきており墨花は丸渕のサングラスをかけてハンドルを握っていた。

 「冷房、寒かったら調節してくれ」

 墨花の言葉に半紙は返事をしないで流れる外の景色を見る。気分的にうんざりしていた。いろんな事が複合的に重なり積もった故の感情だと半紙は自分の気持ちを理解する。

 ファミレスでの食事は墨花の言う通り美味しいものでは無かった。過去に同じ店の別店舗で食事をした事はあるがそんな風に感じた事は無い。半紙は食に対してこだわりが強い人間ではないがそれでも食べるなら美味しくないものよりも美味しいもののほうがいいという欲求ぐらいはある。

 「冷凍チャーハンを自分でチンしたほうがまだマシな出来だった」

 半紙の言葉に墨花が笑う。カーナビの案内音声が時折行き先を伝えるだけで他に音楽やラジオなどはつけていない。静かな車内、車の走る低い音だけが無言になると二人の間に聞こえていた。

 「僕に食べさせたかったのか」

 「正直言うと、その気持ちが完全に無かったとは言い切れない」墨花がぺろっと舌先だけ出してすぐに引っ込める。「なんていうのかな、共有したかったんだよ」

 「情報の伝達だけで充分に共有できる」

 「味覚という情報は共有できないだろ?」

 「必要なかった」

 「僕には必要だった」

 半紙は少しだけ眉を寄せる。「君と僕じゃあ味の感じ方が違う」

 「怒ってるのかい?」

 車が赤信号で停まる。横断歩道をマウンテンバイクに乗った女性が軽やかに横切って行った。

 半紙は目だけを動かして車内の様子を観察してみる。四輪駆動の普通車、車体の色は青だった。座席は成人男性が座っても余裕を感じる。カーナビの画面が自分が所持している車のそれよりもひと回り大きかった。

 ファミレスでこの車に乗り込む前、半紙が墨花に自分の物かと尋ねると彼はそれにノーだと答えた。

 助手席に座って感じたのは、甘い果物系の匂い。助手席側のエアコンの吹き出し口にピンクの花の形をした芳香剤が刺さっていたのを見つけてレンタカーでは無いなと半紙は直感した。

 「こんな良い車貸してくれるなんて、良い友達を持ったもんだな」

 半紙がカマかけ半分、嫌味半分で墨花に言えば相手はふっと余裕のある息を漏らす。信号が青になりアクセルをゆっくりと踏み込んでスピードが落ち着いた頃「親切な人でね、デートするんだって言ったら快く貸してくれたんだ」

 「あっそ」

 本当にそう言ったんだろうなと半紙は思う。だからこそ面白くなかった。いや、面白いという表現は違う。納得するにはどうにもスッキリしない、という感じ。レバーが目の前にあって引いてくれと言われてもそのレバーがどういった作用をもたらすのか、わからなければ引きたくない。そんな気分だった。

 「なぁ」半紙は墨花に声をかける「目の前にレバーがあったとして、そのレバーを引いてくれと言われたらお前どうする?」

 「何のレバーだい?」

 「わからない」

 「わからない? そんなレバーを僕に引かせるのかい」

 「そう」

 「指示役は君?」

 「いや」

 「指示役もわからないのか」

 「そうだね」

 「引かないかな」

 「本当に?」半紙は墨花をちらりと見る。

 「君が引けと言うなら引くよ」

 「僕に責任を押し付けるのか」

 「いいや、その時の責任は僕が負うよ」

 半紙の頭の中に真っ白な部屋に閉じ込められた墨花を想像する。部屋の真ん中には腰高程の真っ白な長方形の支柱がありそこに一本のレバーが設置してある。半紙はその部屋で対峙するように立っている墨花に向かって指示をする。

 ――――レバーを引け。

 半紙は現実世界で目を閉じる。真っ白な部屋の中で墨花は笑顔でレバーを引いていた。

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