9話 杜松果

 少し待つと、再びリングライトが点灯し、さっきと寸分違わないアクセントでイェネーファと名乗った。専門的な用語と英数字を使って、ジュネと三往復ほど会話をする。

 その後は、ジュネはラップトップに向かい、ものすごい速さでキーボードを打ち始めた。

 イェネーファの光は、対照的に弱くなっている。システムに指示を与えるコンソールを音声認識からラップトップに切り替えたのだ、と利玖は理解した。

 しばらくすると、ジュネは脱力したように背もたれに寄りかかって眼鏡を外した。ハンカチを出し、それでレンズを拭う。

 丸くて大きなレンズを、彼女は二秒ほど凝視した。

「これに映っていたんだ」そう呟き、眼鏡をかけ直してまた舌を鳴らす。「かぁ……。しっかし、あんなに離れた所から読めるかね、普通」

「リーダを起動した時、表紙の画像が出ますよね。覗き見をするつもりはなかったのですが、知り合いの名前だったので、忘れる事も出来ませんでした」そこまで喋って、利玖は声をひそめる。「あの、良いんですか? 兄が調べたら、この会話もわかってしまうのでは」

「構わないよ。レンダリングが終わっていないだけで、環境はもうクローズドに切り替わっているから。ログはどこにも残らない」ジュネは微笑む。「おめでとう。これは本番じゃなくて、動作確認です。わたしが何かしても、しなくても、あなたはもうじき解放される。それでも、不満?」

「はい」

「あなたの要求は、あとで訊くわ」ジュネは片手の指を開いて眼鏡を押し上げる。「運命を変えるって、どうするつもり?」

「その事で確認したいのですが、わたしと波來満が大学のサークル仲間である事はご存じですか?」

「へっ」

 おもちゃのラッパみたいな声を出してジュネが固まった。

「コンテストで賞を取って、デビューしたのが去年の暮れで、現役大学生作家として結構話題になったんですよ。兄から聞きませんでしたか?」

「話してないもの」

「わかります。どのような理由があっても、一片の傷もつけてほしくない、心から崇敬している作家の名前は、かえって他人に明かせないものですよね」

「脱線していない?」

「あ、ええ」利玖は瞬きをして座り直した。おかしな時間に、いい加減なカフェインを入れたせいか、どうも、いつものように頭が回っていない。「つまり、ちょっとしたお願いくらいなら気軽に出来る仲だという事です。百パーセントの保証をするのは難しいですが」

「海外に行ったら、絶対に車道と反対側にバッグを持つようにしてねって頼むの?」ジュネはぶるぶると首を振った。「無理よ、そんな事……」

「波來満は、早逝した事で完璧な存在になりましたか」

 ジュネの表情が凍りついた。

「その死によって、遺された作品にセンセーショナルなラベルが貼られた事に、わずかでも意味があると、ジュネさんはお考えですか」

「──そんな訳がないでしょう!」

 ジュネは拳をテーブルに叩きつけて叫んだ。

 しかし、その手はすぐに弛緩し、ゆっくりと上に持ちあがって彼女の顔を覆う。

「波來先生の書く物語は……」

 そう口にしたが、後に続けるのに相応しい言葉を、自分では見つけ出せないようだった。吐息をつき、ゆっくりと首を振る。

「この物語を生んだ世界なら、わたしは、もう少し生きてみようと思えた。波來先生があんな形で命を落とさずに済むのなら、あなたのお兄さんと交わした契約書なんて、キャンプファイアにくべてやってもいいわ」

「わたしはまだ、彼とほんの一年ばかりのつき合いしかありませんが、同意見です」

 ジュネも頷き、顔から手を離した。

「こんな話を持ち出したという事は、あなたも、もう気づいているのでしょうけれど、わたしはあなた達よりもずっと後の時代から来た人間なのよ。波來満がこの世を去った後……。直後とは限らない。あなた達だって『モンテ・クリスト伯』を読むでしょう?」彼女の口調は適切に抑制され、瞳の中には、知性を感じる光があった。「誤解しないでほしいのだけど、その時代になっても、タイム・トラベルなんてものはSFよ。わたしが漂着したのは極めてイレギュラな事態なの。誰も予期していなかったし、これから先も、外部に知られてはいけない。だから、わたしが関わった事で、この世界で起きる事象が不自然に変わらないように、強いプロテクトがかかっている」

「わたしがこのサービスエリアで体験した事を後から思い出せないように、あなた自身が、ロックの部品として組み込まれているのですね」

「そうだよ」ジュネは頷いた。「ここはわたしとイェネーファが作り上げた仮想空間……、箱庭と呼べるでしょうね。今回は、あなたが『箱庭』で他人と接触した時に何が起きるか、データを取りたかったから、こうして姿を見せたけど、次はその必要もない。管理者として同じ空間にいる可能性は高いけど、万が一にもあなたが今回の事を思い出さないように、わたしを認識出来ない設計にしておくわ」

 利玖は、表情を変えないように気をつけていたが、頷いた時、かすかに下唇を噛んでしまった。

 ジュネと取り引きをするにはこれしかないと思ったが、考えてみれば、望むように未来を変えるだなんて、確かに大ごとなのだった。本人に伝えた所で、信じてもらえるかどうかもわからない。

 それに、卒業した後はたぶん、ばらばらになるだろう。たまにサークルで顔を合わせる程度の仲だった自分の言葉を、それから何十年もの間、ずっと覚えていてくれるだろうか。

「わたしからお礼をするのは、思っていたほど簡単ではなさそうですね」利玖は顔の前で両手の親指を合わせて目をつむった。「すみません、少し考えさせてください。……その間に、別件で、お尋ねしたい事があるのですが」

「わたしが知っている事なら、なんでも答えてあげよう」

「ありがとうございます」利玖は頷き、目を開ける。「先ほど、ここは仮想空間だと教えて頂きましたが、現実でのわたしは、どのような状況に置かれているのでしょうか?」

「わかったわ」

 頷いたジュネが、ラップトップのディスプレイを見て笑顔を見せた。

「ちょうどイェネーファのレンダリングも終わったみたい。──見てて、ちょっとすごいんだから」


 ゆっくりと変化が始まった。

 遠くから、徐々に暗くなっていく。照明を落としているのではない。

 外に隔離されていた、底のない暗闇を、この建物全体でじわじわっと吸い込んでいるような、均一でシームレスな変化だった。

 やがて、目を凝らしても、服で隠れていない自分の手と膝がぼんやりと見えるだけになった。完全な暗闇にしないのは、平衡感覚を狂わせない為の配慮だろう。

 目の前にいるはずのジュネの姿も見えなかったが、胸よりも低い位置に、ほぼ水平に光の点が分散していた。蛍火に近い色をしているが、ホタルよりもずっと小さい。ウミホタルだったら、あれは確かミジンコに近い生き物だから、一匹あたりはこれくらいの大きさだろうかと思ったが、実物を見た事がないので、いまいち想像がつかない利玖だった。

 光はそれぞれ、比率を持った間隔で並んでおり、頭の中で直線で結び合わせると、さっきまで使っていたテーブルの立体図になった。光の点は、頂点と対応しているようだ。

 足元と腰の近くにも同じような光がある。これは、座っている椅子を構成するものだろうか。立体図に起こすのはテーブルよりも難しそうなので、諦めた。


 やがて、光の点が移動を始めた。


 あるものは近づき、

 あるものは遠くへ。

 いくつかはそのまま、闇に吸い込まれるように消えていく。


 光が動いた時、色味が少し変わったように見えた。

 何かの基準で発色のパターンを使い分けているのかもしれないが、自分の目に届いた光が、角膜の中で遊んだだけかもしれない。


(……わたしが死んで)


 それから、ジュネが生まれてくるまでの間にも。

 こんな風に、空ではいくつかの星が、位置を変えたり、消えたりしたのだろうか。


 やがて、すべての点が静止すると、短い電子音がして、レーザのような直線で点同士が結びついた。壁と床と、大型の家具をいくつか読み込んだようだ。

 拡散する光がしゅわしゅわと爪先から全身を包み込んで、部屋の中に広がった。

 天井が高い、白い部屋にいた。床の面積は、普段暮らしているアパートとそんなに変わらない。だが、背後にある窓が呆気にとられるほど大きい。そこから外光が入ってきて、白い壁と床がレフレクタの役割を果たしているので、照明がついていなくても何の不便もなかった。

「喋っても大丈夫だよ」

 声がして、向かいに目を戻すと、さっきと同じ距離にジュネがいた。くつろいだ感じのリネンのシャツとカーディガンに着替えている。眼鏡はそのままだったが、光の質が変わった為か、彼女の瞳が緑がかった薄い色をしている事に初めて気がついた。

 今は、フォンダンショコラみたいに重厚な木製のテーブルが二人の間にあって、コースタに乗った飲みものが置かれている。すらりとした円柱形のグラスで、器も中身も無色透明だった。

「ただのトニックウォーター」

 ジュネがグラスを手に取って掲げる。アルコールではないが、二人は乾杯をした。

「母方のルーツがネーデルラントなの」

 冷たいトニックウォーターをちょっとずつ飲みながら、未来人とはこういう顔をしているのか、と考えていた利玖の胸中を読んだように、ジュネが言った。

「この辺に住む人が、何百年後かには、全員こういう顔をしているわけじゃないよ」

「何百年……」

「ものの例えです」

 利玖は自分のグラスを見下ろして、あ、と口を開けた。

「そうか。オランダ語。『イェネーファ』も『ジュネ』も、ジュニパーベリーからきているのですね。──本名ですか?」

「秘密。でも、そう呼ばれるのは気に入ってる」

 ジュネはコースタをつまんでテーブルの端に移した。まだ中身が残っているグラスもそこに置く。

 そして、両手を肩の幅くらいに開いて、静かにテーブルに置いた。

 何かの枠を作っているのだろうかと、利玖が覗き込んだ瞬間、ヴン……、とモータが回るような音がして、そこに白い箱が現れた。

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