8話 妖精の止まり木

「初めに違和感を覚えたのは喫煙所を出た時です。荷物をまとめて出てきたわたしを見て、ジュネさんは、なぜそんな所にいたのかと訊きました。

 どうしてわたしが喫煙者ではないとわかったのでしょう? 未成年に見えたのでしょうか。──それも不自然です。わたしが吐き気を訴えた時、つわりのせいだと勘違いされていましたから。二つの要素は必ずしも矛盾するものではありませんが、併せ持っている人間は少ないと考えるのが普通です。

 わたしの妊娠を疑ったのは、そうなる可能性がある事を知っていたからだとも考えられます。つまり、ジュネさんは、わたしが煙草を吸わない事、恋人がいる事を知っていた。それなのになぜか他人のふりをして近づいたという事になります」

 利玖が論拠を示すのに立てた指先を、ジュネはじっと見つめている。まるで彼女だけに見える妖精が、そこに止まっているみたいだった。

「それに、ジュネさんがここにやって来たタイミングは、わたしと離れていないはずです。二日間、カフェで寝起きしているとおっしゃっていましたが、昨夜はわたしと一緒にジュネさんも隣の席からソファを移動させていました。誰か来るかもしれないと考えて、使い終えた後に元に戻した訳でもなさそうです。今朝はそのままの状態にしてフードコートに向かわれていましたから。鞄を置いて、ラップトップの充電ケーブルをコンセントに差して、ずっと前からいたように見せかけたけれど、ソファでベッドを作った痕跡を再現する所までは気が回らなかったのかもしれません。そう、疲労も、今の方がずっとひどそうですね。本当に四十八時間に相当する時間をここで過ごされているのなら、最初にお会いした時点で、もっと具合が悪そうに見えたと思います。

 そこまでして無関係を装いたい理由は? 簡単に考えるのなら、二つの可能性がありますね。一つは復讐、もう一つは仕事です。復讐にしては、これは生ぬるい。という訳で、後者だと判断しました。

 わたしは交友関係が広くありません。煙草を吸わない事と、交際相手がいる事の両方を──直接教えた訳ではないにしろ──知っている人の数は限られます。その中で、こういう事を思いつき、実行に移せるのは、兄くらいでしょう」

 利玖は椅子の背に寄りかかり、青白い膝を見下ろして吐息をついた。

「兄のやり方を一概には否定出来ません。危なっかしくて、見ていられないのでしょう。──わたしだってそう思います。いつか本当に、取り返しのつかない事態に陥る前に、安全にとらえておける装置を用意しておこうと考えるのは、自然な事だと思います。願わくば、これが本番ではないと良いのですが」

 話し終えると、ジュネは浅く呼吸をして利玖に目を据えた。もう妖精は、指先からいなくなったようだ。

「一つだけ教えてほしい事がある」ゆっくりとそう話し始める。「浴室の中で何があったの? あんな場所、初めから作っていなかった。絶対に行けるはずのない場所だったのよ」

「湯に浸かっている時に、潮蕊とゆかりのある土地神に躰を触られて、いつかお前を嫁取りに来る、と言われました。彼の言葉から察するに、現実の潮蕊をモデルにして作られた場である事を利用して、強引に空間を繋げたのだと思います。こんな所で会うとは思っていなかったし、相手は男の姿をしていて、こちらは裸だったので取り乱しました。たぶん……、わたしは過去に一度、彼に攫われかけていますので」

「わかった」

 ジュネは頷き、目をつぶって深呼吸をする。

 そして、目を開くと、顎を上げ、はっきりとした発音で言った。

「イェネーファ」

 彼女の視線の先、テーブルから一メートルほど上の空間に、ライム・グリーンのリングライトが現れた。直径が二十センチメートルくらいだ。立体的だが、実体はなく、向こうの景色が透けている。

『イェネーファ。起動完了』

 リングライトから、ジュネとも利玖とも違う人工的な女性の声がした。

 利玖は説明を求めるつもりでジュネの顔をちらっと見たが、彼女は腕を組み、半ば目を伏せるようにテーブルの表面を見つめたまま、淡々と言葉を次いでいく。

「管理者権限を要求します。現在有効な認証方法を確認」

 リングライトは一秒ほど沈黙した。何か通信を行ったのだろうか。その後、不規則な点滅を二回ほどくり返した。

『サーバへの接続が確立できません』リングライトの明度がわずかに上がる。『お困りですか? ヘルプのインデックスを探索します……』

 ジュネが舌を鳴らした。

「イェネーファ。すべてのタスクを終了。三十秒後に再起動」

『ヘルプのインデックスを探索中です。インデックスの探索を中止してよろしいですか?』

「よろしい」

 ジュネが力を込めて言うと、リングライトは非常に周期の短い点滅をくり返した後、消えた。直径の違う二つの同心円だけが輪郭として、そこに残った。

 再起動を待つ間に、ジュネは鞄からラップトップを取り出してカバーを開いた。

「いちいち回りくどいんだよな」

「音声認識は楽かもしれませんが、時間がかかりませんか?」

「上手くいった時に楽しいの。光が綺麗だし。でも、インタフェースは改良しなきゃ駄目だな」

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