10話 透明、そしてグレイ

 その箱は、ドールハウスのように初めからいくつかの面が取り外されていて、中の様子がよくわかった。ソファとテーブル、そして二つのチェスの駒がある。

 ソファとテーブルはミニチュアだが、駒は実際にゲームで使われているものと同じ大きさだった。

 ソファの前にポーンがいて、キングはテーブルに接している。どちらも、色はミルクを溶かしたような白だ。

 ジュネはキングを指さして、言った。

「こっちがあなた。薬で眠ってる」

「またですか」

「またって何?」

「いえ、何でもありません。──忘れてください」

 ジュネは首をかしげたが、気を取り直してポーンを指さす。

「こっちは……、わかんないな。誰だろう」

「ジュネさんではないのですか?」

「違う。わたしは今回、現場には行かない」ジュネは眉根を寄せた。「うーん……、お兄さんなのかな。そんな話、聞いてないけど」

「怖い事を言いますね。わたし、一人暮らしですよ」

「あなたの状態はイェネーファでモニタリングしているから、誰かが触ったり、危害を加えようとしたらわかるはず……」

 ジュネはしかめっ面で両手を横へスライドさせた。水底から軽い木片が急浮上するように、そこにラップトップが現れる。カバーを開き、無言で作業に取りかかった。

 そのラップトップは、彼女がフードコートで最初に使っていたものとは見た目が違う。もっと薄くて、背面に小さなプリントがあった。青くて丸い実と深緑色の葉の組み合わせは、多くの人は、ブルーベリーだと思うかもしれないが、よく見ると葉の形が違う。ブルーベリーなら平たい楕円形の葉をつけるが、ジュニパーベリーは、実の見た目が似ていても、まったく違うヒノキ科の植物だから、こんな風に針のような葉をびっしりとつけるのだ。

 ジュネというのが、本名なのか、さっきは教えてもらえなかった。

 だが、プログラマが自分の本名をもじった名前をプログラムに与えるだろうか。──自分だったら出来ない。史岐や柊牙を見ていても、おそらく同じだと感じる。

 属人的なプログラムは危険だ。自分以外の人間が中を見ても、どこに何の機能があるのか、すぐにわかって、継続的にアップデートが行えるようなプログラムを組めてこそ一人前という世界なのだ。

 しかし、この短時間のうちに、利玖の中でジュネの印象は変貌していた。

 オセロの表と裏のように、まるっきり別の人格に入れ替わってしまったというのとは、ちょっと違う。

 言うなれば彼女の思考は、チェスの一揃いの駒みたいなものなのかもしれない。ポーンの側面もビショップの側面も、クイーンの側面も持ち合わせている。その時々で違う駒を使い、思いもよらない形へと盤面を変化させる。

 だけど、それらすべてが彼女なのだ。

 どんな一手にも意思があり、同じ人格を持つ者が動かしている。

 彼女なら、自分にしか扱えないプログラムがある事を、むしろ矜持とするだろう。それが許されるだけの実力も、きっとある。

 ジュネは一人で、黒の駒を全部動かせる。それに対して自分は──否、もしかしたら兄でさえも──たった一個の白の駒に過ぎないのではないのだろうか。

 彼女が未来から来たという話が事実なら、それくらいのアドバンテージが取られていると思っておいた方がいい。

 ジュネがキーボードから手を離した。少し疲れた様子でため息をつく。

「違う。お兄さんじゃないな。でも……、男だ」

「わたしに危険が迫ったら、イェネーファが守ってくれるのですね?」

「うん。それは保証する」

「そうですか」利玖はうつむき、それから顔を上げた。「あの、イェネーファを起動させた時、どうして温泉の事を訊いたのですか?」

 それが利玖が最も気にかかる彼女の一手だった。

 ジュネはゆっくりと視線をラップトップから利玖へ移す。

「理由は、二つある」ジュネは指を伸ばした。「一つ目。あなたのお兄さんが、あそこを特別に警戒するように念を押した事。裸になる場所だし、わたしはついて行かないから。それに、潮蕊は昔から湖と不可分な関係にある土地だから、水が豊富にあるような場所だと、彼にとっても有利だと考えたのかもね」ジュネは肩をすくめる。「それなら初めから作らないでおきましょう、って話でまとまったんだけど、見立てが甘かったな」

「わたしが手で掴んだだけで粉々になってしまうくらい、体が脆くなっていました」利玖はその時の事を思い出して呟いた。

「別に、温泉に限らなくても、どこからでも侵入される可能性はある。リソースが許す限り、そういう可能性をすべて検証して、被害を最小限にするルーチンを組んでおくのがわたしの仕事」

「ありがとうございます」

 ジュネは二本目の指を伸ばそうとしていたが、途中でそれを止めた。

 レンズ越しに、何かを問うようにじっと利玖を見つめる。

 利玖も真似をして、しばらく見つめ返してみたが、彼女の意図がわからずに首を傾けた。

「話しても大丈夫そうね」

 ジュネは微笑み、二本目の指を立てた。

「二つ目。本当は、ただ体に触られるよりももっとおぞましい事が、あの中で起きたんじゃないかと思ったから。同性相手でも、肌に触れられるのを嫌がる反応が、昔のわたしとよく似ていた」

「え?」

 ジュネはゆったりとした手つきでグラスを取って、トニックウォーターを飲んだ。

「わたし、元々いた場所で男に襲われているの。偶然が重なったおかげで最悪のことにはならなかったけど、あの頃の治安って、もう、だいぶ手の施しようがなくなっていて。国の中も外も、結構ぐちゃぐちゃで。司法はわたしみたいな人間を守っている余裕はなかった。そんな世の中だったから、母はわたしが幼い頃から護身術を教えてくれたけど、それがかえって相手の減刑に繋がって、一年と経たずに戻ってきた」

 ジュネの手がグラスを傾けて、氷が柔らかい音を立てる。

「次はないと思ったよ。今度は母も巻き込まれるかもしれない。そう思ったら、以前と同じように生活する事なんて出来なかった。だから殺す事にした」

 ジュネの表情も口調も、まったく変わらなかった。

 だが、それはきっとプログラムではない。

「その時、現場になった場所で、昔、ある犬妖けんようが祀られていたらしくてね。わたしが籍を置いている機関──花筬喰かせばみは、その犬妖に9という番号を振って、ずっと研究を続けていた。

 わたしが行った殺害が条件を満たして、『9』の呪縛を解いた時、人間が捉えているときという概念を超越する力を持った存在が、異なる二つの時代を結びつけた。

 別に、逃げるつもりもなかったし、情状酌量も望んでいなかったけれど、気づいた時には花筬喰の調査員に囲まれて、この時代まで連れて来られていた」

 ジュネは天井を見上げ、口もとを緩めた。

「潮蕊湖サービスエリアは、その時、初めてご飯を食べさせてもらった場所なのよ。長居する人はいないし、他所よそから来た人ばかりだから、ちょっとくらい変わった格好をした客が混ざっていても目立たないでしょう?

 調査員の中に一人だけ、若い女の人がいたんだけど、わたしの怯え方が普通じゃない事に気づいて、男の調査員を遠ざけてくれたの。それから、フードコートの隅の席まで連れて行って、ゆっくりとオムライスを食べさせてくれた」

 ジュネは喉元に手をやって、目を閉じた。

「そのオムライスは、本当に美味しかった。だって、ここは平和なんだもの。生きていける、何も心配しなくていいって、信じる事が出来て……」

 ジュネは、しばらく黙り込み、やがてため息をつくように「ごめん」と言って座り直した。

「記憶に残らないからって、調子に乗って話し過ぎたね」

「いえ……」

 興奮が、炭酸の泡みたいに体を包んでいくのを感じながら、利玖は静かに深呼吸をした。

「話してくださって、ありがとうございます。おかげで、波來満を救えるかもしれない一つの可能性を思いつきました」


 *


 利玖が話す案、そして、その見返りに求めるものを、ジュネは硬い表情で聞いていた。

「何を言うかと思えば……」聞き終えると、ジュネはこめかみを押さえた。「とても実現性が高いとはいえないわ」

「わたしとジュネさんの両方が、実現性が高いと判断する方法は、プロテクトによって妨害されます」

「それは、確かにそうかもしれないけど」ジュネは苛立たしげに指先をこすり合わせた。「あなたの要求を呑んだらどうなる? あなたのお兄さんと交わした契約が反故になるだなんて、ちっぽけな話をしているんじゃないわよ。波來先生を助けられる確証はない。でも、あなたの望みを叶えたら──『本番』としてこの装置が起動した時、すぐにあなたを覚醒させて、逃がす手伝いをしてしまったら──あなたは危険に晒される。それは、絶対に確かな事よ」

 ジュネは赤らんだ目元を利玖に向けた。

「わたしは、あなたのお兄さんを取引先として信頼しているし、これから先も一緒に仕事をしたいと思っている。それなりの無茶をしているけど、必要な事だと思ったから、契約書にサインしたんだよ。

 お願いよ……。お兄さんの言う事を聞いて。自分の利益の為にこんな事をする人じゃないって、あなただってわかっているでしょう? 記憶には残らない。誰も巻き込まない。なのに、どうして抗うの?」


 ジュネの言葉は、おそらく彼女が狙ったよりもずっと深く利玖の心を抉った。

 兄は、ジュネに教えなかったのだ。銀箭によって、自分の婚約者がどんな目に遭い、その事に利玖がどれだけ深く関わっていたのかを。


「……わたしも、兄には感謝しています」

 そう口にしながら、利玖は、ジュネの顔を見る事が出来なかった。

「わたしよりも、兄の方がずっとよく物事を知っている。疑いを捨てる事が出来なくても、兄を信じて、すべてを委ねるのが、たぶん、一番良いのでしょう。

 だけど、そうすれば間違いは起こらないから、という理由で、この呪いを誰かに肩代わりさせたら、わたしはきっと、その先にある人生を享受出来ないと思います。たくさんの人が犠牲を払って守ってくれた籠の中で、大切な人と共に生きて、幸せな思い出を作って、もしかしたら、家族も持って……。そして、いつかそれを、全部壊してしまいたくなる。

 兄がわたしを閉じ込めるのは、安全だけが理由ではない。わたしの目の届かない所で、何か、残酷な事をするからです」

 言いながら、柑乃の姿が脳裏をよぎり、もう兄は、そういう事に手を染めてしまっているのかもしれない、と思った。

 兄は、銀箭を討つつもりなのだろう。強力な妖である『九番』を使役する美蕗みぶきや、霊視の力を持つ柊牙しゅうがも、もしかしたら、そこに加わるのかもしれない。

 だが、史岐は別だ。兄が直接、戦力として用いるよりも、利玖の枷として使う方が役に立つ。


 兄が望む通りに行動していれば──彼の目をかいくぐって銀箭の元へ向かう気など起こさなければ、史岐の命が危険に晒される事はない。

 だが、その後に待っているのは、誰かの血であがなわれた幸せを、受け入れる事も、手放す事も出来ずに身をすり減らす、緩やかな崩壊だ。


 どん底に叩き落とされるのは構わない。

 いくらだって、這い上がってやる。

 だが、誰かと生涯を分かち合い、何十年も共に生きた後で、自分が耐えられなくなったからとすべてを滅茶苦茶にするのは──そうなる事をわかっていながら、何もせずにいるのは、我慢がならなかった。


「自分とお母様を守るために決着をつけて……、違う時代に来ても、しっかりと生きておられるジュネさんからすれば、子どものわがままでしかないと思います。ですが、どうか……」

 利玖が話し終えるのを待たずに、ジュネが椅子を引いた。

 彼女が背後に視線を向けると、それまで何もなかった壁の表面で光の点と線が交錯し、あっという間に取っ手の付いたドアが現れた。

「出口はあちらよ」

 利玖はとっさにジュネを見つめたが、彼女は横を向いたまま、視線を合わせようとしなかった。

 利玖はしばらく、動く事が出来なかったが、やがてふらつきながら立ち上がった。額の内側で何かが炸裂したように高い耳鳴りがして、頭の中が真っ白になり、ものが考えられなかった。

 一度頭を下げてから、ドアに向かって歩く。

 取っ手を掴むと、マットな感触で、冷たかった。

 波のようなカーヴを描く取っ手を押し下げて、外に出ようとした時、利玖は名前を呼ばれて、振り向いた。

 光る物が放物線を描いて飛んできた。

 利玖は慌てて取っ手を放し、両手を広げてそれを受け止める。

 重みを確かめてから、そっと手を開くと、薄緑色の光を抱いたキングの駒がトク、トクッと脈打つように光っていた。

「ジュネは本名なの」

 声が聞こえて、顔を上げると、挑戦的な眼差しとぶつかった。

「わたしに殺しをさせたのは父で、名前をくれたのは母だった。だからわたしは自分の命を半分憎んで、半分愛して生きていく。父を殺して、違う時代にやって来て、母がどうなったかもわからないままだったから、そうやって折り合いをつけるしかなかったけど、あなたはまだ盤の上で勝負を諦めていない。それなら、全部が終わった後に折り合いをつけるんじゃなくて、盤面を引っかき回して、波來先生もお兄さんも、自分の事も救う道を見つけ出す事だって出来るかもしれない」

 ジュネが立ち上がり、歩み寄って来た。

「怖い思いをさせてごめん。……最悪の事態にならなくて、本当によかった」

「ジュネさんのせいではありません」利玖は、ふいに気がついた。「そうか。昨日、寝る時に寒さを感じなかったのは、ジュネさんのおかげだったんですね」

 ジュネは苦笑した。

「やっぱり不自然だった?」

「湯上がりは、それは恨みましたから。なんで自分は温泉に来るのにスカートなんだ、と」

「あそこでばれても、良いって思っちゃったのよね……」

 ジュネは手を伸ばして、利玖の手を握った。

「キングはあなたが持っていて。この部屋の外では実体がないし、認識も出来ないものだけど、次にイェネーファにアクセスした時には、あなたの要求に応えるプログラムを呼び出すように仕掛けを施しておくわ」

 利玖はキングの駒を眺め、それからジュネの手元を見つめて、一つのイメージを強く念じた。

 氷がひび割れるようなノイズが空間に走った。

 次の瞬間、曇り空を映した湖面のように透きとおったグレイのルークが、そこに現れた。

「びっくりした……」ジュネが手を握ったまま目を見開いている。「もうイェネーファの使い方を覚えたっていうの?」

「わたしの意識に外から働きかけているのなら、その逆も出来るのではないかと試してみたまでです」

「なんて事!」ジュネが額に片手を当てて天を仰ぐ。オーバなリアクションだったが、口元には笑みが浮かんでいた。「帰ったらすぐにアップデートに取りかからないと。このままじゃ、通用口まで作られかねないわ。あなたは脅威ね」

「こんな空間を一人で作り上げてしまうジュネさんに比べたら、全然大した事はありません」利玖は、シンプルで居心地の良い内装を見渡して言った。「願わくば、次にお会いした時には、そのルークがわたしと同じ色であると良いのですが」

 ジュネは、まだぷかぷかと浮いているルークを、複雑な表情で見つめた。

「あなたを表す駒の色として白を選んだ事に、特別な意味はなかったんだけど」そう呟くと、彼女は、そっと指を伸ばしてルークを包み込んだ。「でも──クリアなグレイも、素敵だね」

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