第五章 猪口直衛、アメリカの大地に立つ その5

 店は大盛況のうちに閉店した。


 熱狂の渦に巻き込まれた猪口に誘われて、陽気な客たちは大合唱で歌った。


 舞台を去ると見知らぬ客たちが酒を勧めてきた。


 高林に目をやれば、彼も酒を勧められている。


 勧められるまま酒を飲み……猪口は意識を手放した。


 

 気が付いたとき、見知らぬ天井があった。


「……あ、起きました?」


 気だるげな高林の声がする。


 身を起こそうとすれば、彼の盲導犬が寝ていて、足元にいて起き上がるのを邪魔する。


 横のブラインドから月明りと遠くからパトカーの音が聞こえる。


「……ここは、どこだ?」


 猪口は脳の中でいろいろ情報を整理しながら横にいるであろう高林に聞いた。


「俺のアパートです」


「荷物とか背負ってくれたのか?」


「まさか……あのバンドメンバーがタクシーを呼んでくれたんですよ」


「そうか……」


「『久々のサイコーな一夜だった。ありがとう』って褒めてましたよ」


「そっか……今思うと恥ずかしいな……」


 二人は揃って欠伸をした。


 確かに、最高の夜だ。


 猪口にとってみれば、文字通り、夢のような夜だ。


 美味い食べ物がある。

 

 歌がある。


 酒がある。


 友がいる。


 何もかも、文句一つない。


「捜査は、明日からにしましょ……あんなに酒を飲んだのは久しぶりなんで……」


「俺もだ……」



「猪口さん、起きてください」


 見知らぬ天井はまだあったが、足の重しがない。


 起き上がる。


 頭というか、体全体がだるい。


 視界に盲目の高林が入った。


「起きてください」


「うん……当直以来だな……人に起こされるのは……今何時だ?」


「六時半です。簡単な朝飯を作りますから、さっさとシャワー浴びて、服を着替えてください。うちの調査員が来るんで……」


 この口調も、刑事時代から変わらない。



 猪口がシャワーブースで悪戦苦闘しつつ、何とか体を洗い、用意されたタオルで拭いて鞄から衣服を出して着衣した。


 身と心を引き締める。


 その間、何度もレンジがチンっと鳴るのを聞いた。


 嫌な予感はした。


 小さいキッチンに四人が座って食べられる食卓が据えられている。


 ドアを開ける高林が気が付いて振り向いた。


「朝飯にしましょう」


 ふと、冷蔵庫上にある年季の入った電子レンジの傍を見るとゴミ箱に冷凍食品の空き袋が何袋もあった。


 皿には、如何にも「電子レンジでチンました」と言わんばかりのハニートーストだのベーコンエッグがある。


 向かい合うように座り、「いただきます」を言う。


 モリモリ食べる高林を尻目に、猪口は一口食べた。


 舌から体に電撃が走った。


--マズッ‼


 日本の冷凍食品技術の高度さを改めて知った。


 ぽそぽそして過度に甘いだけのパン、不協和音のような塩っ気と脂身の強いベーコンにボソボソの卵……


「美味いでしょ?」


 刑事の現役時代から高林は食に関して疎い。


 舌も疎い。


「あー、うん……そう……だね」


 目が見えないのだけど、猪口は視線を逸らす。


 半ば無理やり口に入れる。


 それでも、不味いものは不味い。


「スープもありますけど、飲みます?」


「……あー、うん……いいや。俺、腹いっぱいだし……」


 腹、八分目どころか半分も満たないが猪口は辞退した。


 ドックフードを食べていた盲導犬が憐れむように猪口を見て、珍しくクゥーンと鳴いた。



 食器は洗わない。


 というか、紙トレーなので捨てる。


「所長、おはようございます」


「ミスター高林、おはよう」


 そこに可愛い少女と呼べるような女性と、黒人の豊満な女性がやってきた。

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