第五章 猪口直衛、アメリカの大地に立つ その3

 今から十年以上前。


 猪口直衛と高林道人は新宿公園で目の前を過ぎる人を、漠然としてみていた。


「そうか、決心がついたか……」


 当時、東京オリンピックで盛り上がる(または、盛り上げようとする)都庁前は観光客や視察などをする選手団や委員会のためにオリンピックへの準備が進んでいた。


 猪口は、当時、公安二課の『超特級エース』と呼ばれるほどの熟練刑事になっていた。


 刑事としては、そろそろ引退を考え始め、後進へバトンを渡す準備を始める。


 そのノウハウを渡す予定だった男は、しかし、今日、上司である猪口に辞表を出した。



 事件は筑波にある某有名大学の事件解決のため、猪口直衛刑事と高林道人刑事が筑波警察と合同で調査した。


 その事件の首謀者は、研究に心血を注ぎ、己が研究を否定されることを極端に嫌うプライドの高い大学教授だった。


 刑事どころか、科捜研でもお手上げ状態だったが、猪口は『何かしらの手掛かりになるであろう』と春平と大学が同期で在学当時は『星ノ宮大学の三羽烏』の一人に数えられた、沖場権之助博士に事件内容と資料を同封して滞在しているブラジルのホテルへ送った。


 同時に、秋水に頼んでネットで事件の概要を話した。


 当時から『万物博士』とも称される権之助博士は、物理から生物学、医療など分野を問わず、というか、関連付けて研究をしていた。


 だが、特許はあまり興味がなく、製薬会社や医療機器メーカーなどに要請があれば資料や研究結果を渡していた。(不正利用などは許さなかったが)


 画面の向こうで『ふぅん……』と実につまらなそうに資料を眺めていた。


『こんなバカみたいな、金のかかる机上の空論に国は補助金を出しているのか……糞だな』


 最初、耳にしたとき、猪口は権之助博士の言葉に驚いた。


『猪口刑事、星ノ宮大学にある僕の研究論文の中に事件のヒントになるかもしれない資料があるはずです……ええっと……確か、三直みのうキャンパス第二図書室の地下一階の……F棚……そうそう、F棚の三番にありますよ』


 それを聞いた猪口は、礼を言って回線を切ってもらい、一応、言われた場所に行ってみて驚いた。


 過去の卒業生が書いた卒業論文や標本、資材などが番号を振られて保存されていた。


 論文も膨大で、案内した司書曰く、電子化もしているがなかなか追いつかないと言う。


 特に異彩を放つのが権之助博士の論文が百を超えるという。


 確かに、権之助博士が言っていた場所に、目的の論文はあった。


 それを見た科捜研は最初は事件解決の足掛かりに喜び、最後は恐怖に震えた。


 所長は言った。


『権之助博士の高名は知っています。しかし、ここまで緻密で正確なデータは今でも高精細な機械を使っても……正直、身が凍ります』


 だが、有罪になる証拠は出そろった。


 それを容疑者である博士に突き付けたとき、隠し持っていた薬剤を投げられた。


 同時に同席していた高林が庇い、目に液体がかかった。


 すぐに警備員などが取り押さえ容疑者は逮捕され、高林刑事は救急搬送された。


--遅めの冬休みですよ。


 見舞いに来た猪口に高林は笑った。


 その眼には痛々しい包帯がまかれていた。



 結局、高林は失明をした。


 それを理由に、高林は離婚を決断する。


 妻は何も言わず、ただ、手を握り、泣いた。


 慰謝料や子供の養育費は請求されなかった。



 そして、別れる妻への最後の頼みとして猪口への辞表をタイピングしてもらい、提出した。

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