第三章 父と息子と時代(後編) その一

『婿殿』がセットした十六インチのパソコン画面に大きく美しい蝶の標本が映った。


『僕の助手だったイギリス人のロンパー君が見つけたんで、一応【ロンパー蝶】と名付けた』


 画面の隅に四角い枠ができ、老年になった沖場権之助が解説をする。


「すげぇ、綺麗」


「うんうん」


 彼と同じ歳の親友二人は日本から画像を見て、その鮮明さもさることながら蝶自体の美しさにも魅了された。



 半透明ながらコバルトブルーの美しい対の羽根に小さな胴体がある。


 模様もガラス細工のように細やかで美しい。


 子供だったら、この生き物が空を飛んでいるところを想像しただけですべてを忘れ、この小さき舞姫に見惚れるだろう。



『おーい、おい。この蝶は確かに美しいけど、僕が研究対象にしたのは、この蝶の持つフェロモンを気体から液状化すると分子結合で難病の新薬になるかもしれないという、国際プロジェクトだよ』


 そこから始める沖場権之助の科学話である。


 専門家や研究者がいたら喉から手が出るほどの貴重な講義だが、もしも、『婿殿』や正行などの一般人や普通の学生が聞いても痴呆な顔をして「はぁ、そうですか」で終わりだ。


 だが、権之助も慣れたもの。


 できうる限り平坦な例えで簡単な言葉で語る。


 しかも、それでも名門大学生でも苦難する解説を店主も春平も即時に理解する。


 疑問があればすぐに質問をする。



『いやぁ、実に充実した時間だった』


 解説が終わり、画面の向こうは蝶ではなく、ほぼ店主と同じぐらいの禿げになった権之助が現在の助手が入れたコーヒーをすすっていた。


 ジャングルの拠点から近い街にある高級ホテルからみたいだ。


 だが、その内装はぐちゃぐちゃである。


 ベットの掛布団は滅茶滅茶乱れているし、部屋には書き損じたレポート用紙が捨てられている。

 参考資料の本も乱雑な山状態だ。


 しかも、不規則な生活をしているのか、宅配ピザの空箱やジュースの空き缶もゴロゴロしている。


 何より壁一面には日本から持ってきた大量の付箋が所構わず張られている。


 

 今でいうのなら『過集中モード』になると権之助は場所などを問わずにチラシの裏の白紙だろうが領収書だろうがメモを大量にする。


 そうして、自分の知りえた知識や仮説などを整理して理解していく。


 歳を老いて、多少は緩和されたが、それでも、彼を何も知らない人が見たら狂人と思うだろう。



『来月には日本に戻るよ。もう、老骨にはジャングル生活はちと骨だ』


 その言葉に店主は苦笑する。


「そりゃ、そうだ。一年以上、ジャングルのベースキャンプで現地調査をしていたなんて聞いた日には驚いた」


 だが、春平は真剣な顔で聞いている。


 その顔を権之助も見返す。


『どうだい、春平。君が、この研究を引き継がないか?』


 とんでもない発言をする友人を春平は笑顔で答えた。

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