序章その一 猪口直衛という元刑事と「えん」 その4
龍野は口を開きかけ、何かを言おうとした。
だが、何を思ったか、また閉じて斜め上を見た。
視線の先には、あの巨大な円相がある。
「猪口……」
「ああ、猪口で結構です」
「猪口さんは、これを見て何を連想されますか?」
今度は猪口が少し考えて正直に答えた。
「好物の大根の煮物ですね……死んだ母の得意料理であまり味が染みていないのですが、それが逆に大根の滋味が分かって美味かったです」
「いいですね……その大根料理にも興味があるし、自分のような立場になると気取った人間が思ってないことを言うので正直、業腹に来るのですが猪口さんは素直なんですね」
「素直……ですか? 知り合いからは『曲がった木でも三百六十度曲がれが影は真っすぐに見える』と皮肉られますよ」
そう言って猪口は苦笑した。
「自分……僕は目玉焼きですね。白いご飯に乗せて味の素を振りかけて醤油を少々。大学院生独身時代の味ですよ」
「それ、美味そうですね。今は、やたら自然派とかヴィーガンとかうるさいですから……」
「そうそう……」
「ちなみに黄身の固さは?」
「少し固めで中が生が好みです」
「うわー、わかりますぅ」
猪口の心にもう警戒心はない。
むしろ、食べ物の話は楽しい。
否定されないともっと嬉しい。
こんなに気持ちのいい話は久しぶりだ。
と、龍野は言葉を止めた。
再び、円相を見る。
「養母は『子を宿す子宮に見える』といいます」
「ようぼ?」
首をひねる。
老いた脳みその資料を漁る。
思わず、口に手を当てた。
基本『五家』は血筋を大事にする。
しかし、龍野家だけは例外である。
時代や日本の情勢、なにより個性の強い『五家をまとめる』という使命で龍野家に嫁ぐ女性は全員、結婚前に子宮を取り出し、子供を産めない体にさせる。
そして、優秀な孤児を見つけ、行き届いた教育や体験をさせ成長させ、龍野家の『思想』を受け継ぐ人間に育てる。
そのことを聞いたとき、猪口は、自分がどんな家を守っているか背筋が凍る思いがした。
そんな猪口を龍野は変わらない笑顔で見守り、言った。
「養母から話があるそうなので一緒に彼女の住む葉山まで僕の車で行きましょう」
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