戦前史・後編
対して、強烈な個性、というものは、こと就職活動においては、少々邪見にされる傾向がある。
強い個性――すなわち強い自我、ニアリーイコールでそれは、己を曲げぬ強い意志を持っているということに等しい。
己を曲げない。
それ
協調性とは、やはり社会人となる上でかなり重要となるものである。
それが欠落し、個人の能力だけでのし上がってきた輩は、必要な人材となることができずに立ち止まることとなる。
個人主義の限界である。
だからこそ、それゆえに。
社会に溶け込むための協調性の育成のために、学校という組織がある。
無論、学校はそれだけのものではないけれど――しかし職業訓練校が世に多くある中、義務教育や普通高校での教育は、人間として必要な協調性を、作り出すためにある。
言わずもがな、この人間として――というのは、ホモサピエンス的な話ではなく、社会生活を営む人間という広義の意味を含んでいる。
しかし果たして、それはどうなのだろうか。
企業側が「優秀な人材」「当たり前のことが当たり前にできる人間」を求め、学生側も「普通」「一般」であるための教育を施された者が就職活動を行う。
そこに「異常者」の介入する余地はないのである。
異常者という言い方が悪ければ、こうも言いかえることができよう。
普通でない。
一般でない。
例えばそれが中学生ならば、そういう文言に憧れを抱くだろう。だが、ある程度集団生活での過ごし方を理解した高校生、大学生ならば、その言葉の持つ危険な香りを知っている。
就職活動において、「異常者」に居場所はないのである。
否、正確には、なかったのである、と言った方が正しいか。
それは昭和、平成の考え方であり、令和の今の世は違う。
令和は、色々な意味で、多様性の尊重される時代となった。
多様性。
皆の在り方が良しとされ、弱者にも手が差し伸べられ、劣った者にも機会が与えられるものとなった。
その多様性の形は、「異常者」にも及んだ。
社会不適合者、はぐれ者、はみだし者、どうしようもない者にも、平等に機会が与えられる。
成程、素敵な思想である。
ただし、それを実現するためには、莫大な予算と、それこそ異常な、企業側の労力を必要とする。
その者が入社した後のことも考えなければいけないからだ。
異常者にも人権を――とは、そう簡単な話ではないのである。
就職活動は困難を極め、令和にも就職氷河期を迎えた。
今まで溢れていた多くの異常者、落ちこぼれた者たちを拾い上げようとしたのである。当たり前である、ただ「優しさ」とか「正しさ」とか、そういう話ではもうどうにもならない領域の話である。
人々は気付く。
多様性とは、時に恐ろしい。
落ちぶれることができないということなのだから。
そして――その後。
ある一つの企業が台頭して、就職活動が戦争と化した。
名付けて――いや名付けるまでもない――そのまま、就活戦争である。
多様性を受け入れるために――皆を受け止めるために、激化する就活を鎮火するために。
一言で言えば、殺し合いである。
皆の大好きな「多様性」により、就活生の人口は、落ちぶれた者も含まれて増加している。膨れ上がった人口を減少させるという名目で、就活戦争という仕組みは、世の就活斡旋業者の中にも膾炙し、多くの企業がその戦争的選考方法を活用するようになった。
就活のために、命を懸ける。
初めは反対勢力やデモも多かったけれど、当時の与党の賛成と、陰謀論者とがごちゃ混ぜになり、倫理観の問題は
そして時代は少しだけ流れ、就活戦争真っ只中。
一言で言えば。
就活のために若者たちが殺し合う時代になった。
(続)
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