025. 反撃のネル
気絶し、倒れ伏したゼスト達の前に、ネルが庇うように立った。
ネルのオーラ。その質が変わっていく。
喩えるならば、春の日差しから凍てつく雪原へ季節が逆に巡るように。
ネルは人格をイリーナのものへと変えた。
かといって解離性同一症のように別個の人格があるわけではなく、あくまで意識や記憶はネルのままだが、イリーナの価値感、技術、知識を全面に押し出しただけだ。
意識のハンドルをイリーナに渡したようなもので、一種の催眠暗示と言える。
だがそれが劇的な効果を生む。
ネルは祝詞を唱え、身体能力の向上と強化の神聖術を発動する。
高速で移動したネルは、怪物のハンマーのような頭の上に立った。
怪物は彼女の姿を見失っている。予備動作なしに死角───離れた両目の間───を移動したので、急に姿が消えたように感じたのだ。
ようやく
落下中、ついでに怪物の大きな口を狙って杖を振るい、牙を何本か叩き折った。
「■■■■■■■■~~~~~~ッ!!」
痛みにもがき、四本の腕が誰もいない頭上を探る。着地したネルは再び大きく跳躍。
大きく杖を振りかぶって、怪物の指の一本を叩き折った。そしてそれを何度も繰り返す。
ムキになって腕を振り回す怪物。
怪物の絶叫により、ゼスト達が意識を取り戻した。
「ゼストさん! スウィンさん! 私の合図で向かって右の前足に打撃を!」
「へ!? わ、わかったわ!」
ネルの言葉にゼストは黙って頷き、スウィンも一瞬の間の後に返事した。
「今です!」
着地したネルの合図。
「させないわよ! 何をしてくれてるのよ!」
温厚そうだったネルの突然の豹変に面食らっていたマリアだったが、これ以上やらせてなるものかと本の頁を捲る。だが───
「あっ!?」
死角から飛んできたダガーに二の腕が切り裂かれた。
ピアが死角に回り込んで結界の外から投げたのだ。
好機を逃さず、ゼスト、スウィン、ネルは怪物の足に、それぞれの獲物で渾身の一撃を与えた。
「■■■■■■■■~~~~~~ッ!!
怪物は絶叫して片膝を付いた。
ゼストはネルの動きが信じられなかった。
予備動作を見せず、無駄のない最小の動きと最短の距離で死角へ移動したこと。
両目を潰して視界を奪った上で、口や指を攻撃したこと。
しかもそれらが急所であったり、痛覚の鋭敏な箇所である。
その攻撃はすべて、上半身に怪物の意識を集中させるため。つまり、本命である下半身を攻めるための布石だったのだ。
怪物の粘液が何のための物かは分からないが、あれが神聖術の効果を減じる可能性がある。
そのため、攻撃用の神聖術ではなく打撃での攻撃を採ったのだろう。
無駄のない動作や急所を狙う的確さ。
素早い状況判断。
相当の戦上手だ。
神聖術での遠隔攻撃を禁止した一対一の接近戦の実力はゼストに匹敵するだろう。
近接戦闘では、もしかしたらフィールエルより上かもしれない。
「ネルさん。貴女、いったい……」
「話は後です。このまま一気に仕留めましょう」
ネルが提案したその時……。
「殺す殺す殺す殺す殺す……あなた達、今すぐ殺すわ。あなた達だけじゃなくあなた達の家族も友達も全部」
マリアの眼は憎悪で妖しく光り、黒の呪力が可視化されてマリアの周囲で揺らめいていた。
スウィンは目を疑った。マリアの髪が風もないのに揺れ、地に落ちていた本が浮き上がって彼女の前で止まったのからだ。
呪怨術者の負の感情が大きければ大きいほど、世界に対する干渉が大きくなる。
いまマリアの周囲では世界の理が捻じ曲げられているのだ。
ゼストにはそれが理解できた。神聖術者にも似たような現象が起きることがあり、フィールエルも経験があったからだ。
「あうっ!!」
ピアの苦しげな悲鳴。
マリアの呪力が形を成し、一本のリボンと成ってピアを締め上げたのだ。
「ピア!」
「動かないで。動けばこの子がどうなるか……解るでしょう?
マリアはピアを手元に引き寄せながら言った。
「…………」
ゼスト達の動きは完全に封じられてしまった。
なにか形勢逆転のチャンスは―――?
高速で頭脳を回転させるネルだが……
ドン。
彼女の左胸を、背後から何かが貫いた。
マリアの呪力のリボンだった。
「え……?」
かふっ、と吐血するネル。
「ネルッ!」
「ネルさんっ!」
「まずは貴女からよ、聖女ネル。貴女、あんなに強かったのね。とんだ伏兵だわ。でも貴女、自分の傷は癒せないんでしょう?」
もう一本のリボンが、ネルの体に巻き付いて持ち上げる。
「さぁ、餌の時間よヴァリオン。一気に吸収してしまいなさい」
黒リボンがネルの体をヴァリオンの口元へ運ぶ。
「やめろっ!!」
「やめなさいっ!!」
絶叫したゼストとスウィン。
その時。
バン!
聖堂のドアが開かれ、何者かが現れた。
ユーゴだった。
その姿を見て、ネルは虚ろな瞳を細めて微笑んだ。
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