023. 祈癒の聖女の過去〜イリーナ〜

 ネル・クロウセスには前世の記憶がある。


 正確には四歳の時、木から落ちて頭を打った拍子に思い出したのだ。


 

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 王国の辺境の村に生れたネルに父はなく、母親だけの母子家庭だけだった。

 しかし、近所に住んでいる人たちが何くれと無く世話を焼いてくれたし、同年代の友達もいたから寂しくはなかった。

 母親は刺繍のお針子などをして生計を立てていた。昔は王都で働いていたらしいのだが、それ以上は語ろうとしなかった。


 事件は四歳の時に起きた。

 村の子供達と木登りをしていた時、ネルは少し細めの枝に腰掛けたのだが、遊び友達の少年が同じ枝に掴まったのだ。

 枝は二人分の体重に耐えきれず、折れた。

 大人が背伸びしても届かない位置にあったため、二人の墜落の衝撃は決して少なくなかった。

 気を失ったネルは夢の中で、見知らぬ町にいる一人の少女の人生を追体験していた。



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 かつてロシアがソビエト連邦と呼ばれていた頃。一人の孤児が政府の施設に引き取られた。

 孤児の少女にはそれから武器弾薬の扱い方、政治経済の知識、武術の手ほどき、テーブルマナー、異性の籠絡の仕方、そして人の殺め方などを徹底的に叩き込まれた。

 施設は、政府が裏で運営する諜報員養成所だった。

 少女の名はイリーナといったが、コードネームを与えられて以降、その名を自ら名乗ることはなくなった。


 イリーナは天才的な暗殺者として成長していた。

 偉大なる祖国のため、祖国に仇を為すもの、その可能性が高いものを排除していった。

 諜報員、あるいは暗殺者として着実にキャリアを積んでいたイリーナは、任務のため東ドイツへと渡った。

 しかし東西の壁が崩れた時、その騒動のドサクサに紛れ、撃たれた。それも背後から。

 誰が打ったのかは終ぞ分からなかったし、イリーナはそもそも知る必要がないと想っていた。

 結局、私は邪魔者になったのだ。

 己の運命を受け入れて、イリーナは目を閉じた。



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 暖かさを感じて瞼を開くと、倒れているイリーナを見下ろすようにして誰かが立っていた。

 老人か若者かは判らない。後光が差してシルエットのみだったからだ。

 着ているものも、ボロと言っても差し支えのないほどのゆったりしたローブで、男か女かも判らない。

 よく見ればイリーナが倒れているのは、ベルリンの広場ではなかった。

 何もない白い空間。

 その存在がイリーナへと語りかける。


 ───女よ。お前は人を手に掛けすぎた。

 ───本来ならば地獄の最下層にて悔い改めさせるところだが、お前の魂は未だ汚れていない。

 ───お前は己の為してきたことの本当の意味を知らない。

 ───試練を与える。知れ。そして悔い改めるよ。


 イリーナはいつの間にか、白銀の世界にいた。

 そこには氷河以外何もない世界。居るのはイリーナのみ。

 いや、正確にはイリーナ以外の人もいた。

 しかし彼らは氷河の中で眠るように目を閉じたまま、閉じ込められていた。


 ───女よ。その者たちを救い出せ。


 声はそれ以来聞こえなくなった。

 それからイリーナは、は氷漬けになっている人たちを素手で救けていった。

 そうしないと影のような怪物が突如として現れ、強烈な責め苦を味わわされるからだ。

 肉体ではなく、魂そのものにやすりを掛けられるような、耐え難い苦痛を。

 人々を救出すると、その度にその人が死んだ情景と、残されて涙する者たちの心情がイリーナの魂に流れ込んでいった。


 いつしかイリーナは止め処なく涙を流しながら、人を傷つけることの罪深さを知った。

 もうどれだけの間、その行為を繰り返しただろうか。

 ふと気がつくと、以前と同じように白い空間にいた。


 ───お前は試練を乗り切った。

 ───魂を浄化し、違う世界で今度は人のために生きるが良い。

 ───いままでの人生、これまでの出来事。すべてを忘れてしまうだろうが、人のために祈ることを絶やさなければ、世界はお前に力を貸すだろう。



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 ネルは目を覚ました。そして理解した。

 いま見ていた夢は、己の前世なのだと。

 イリーナの人生を追体験したが、自分はイリーナかと言われればそうではない。

 あくまでも自分はネル・クロウセスで、イリーナの記憶と知識や経験は知識の一つとして客観性を持ってネルの中にある。


 頭は痛むが、どうやら自分は大事無いようだと思った。しかし周囲が騒がしい。

 一緒に木から落ちた男の子が頭から血を流して目を覚まさないのだ。

 ネルは思い出した。

 人のために祈れば世界が力を貸すという言葉を。

 そして本能的に理解した。

 自分にはその力があるのだと。

 

  ───かみさま、どうかこの子をおたすけください。


 純粋な願いが奇跡を呼んだ。

 ネルの全身と男の子の頭部が淡く光ると、男の子が負った傷がたちどころに治り、出血が止まった。

 子供が木から落ちたと聞いて集まってきた大人たちの驚きようといったら無かった。

 イリーナの記憶は喜びに打ち震えた。

 人を傷つけて生きただけの私にも、人の役に立つことが出来るのだと。

 悲しむ人々を減らせるのだと。

 ネルはその日から、怪我や病気に苦しむ人々を治していった。


 同時にちょっとした弊害も起こった。

 少しでも体を鍛えてからでないと、何故か不安で眠れなくなってしまったのだ。

 たぶん、イリーナだった頃の記憶がそうさせるのだ。


 治療の対象は、当初はネルが住んでいる村の住人だけだったが、どこからか噂を聞きつけて近隣の村からも病人が救いを求めてやってきた。

 そして、ネルの噂がミラール教の総本山に伝わるのに、そう時間はかからなかった。

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