第41話 誘惑者

 夢とも現ともつかない空間で、モルテがおれに微笑みかける。

 優しく、慈しみに満ちた瞳。

 両腕を広げ、まるで母が子を抱くように――

 痺れるような甘い香りに、脳髄がとろけそうになる。

 このまま――ああ、このまま。

 飛び込みたい。包まれたい。貪りたい。

 他のことは、もうどうでもいい……

 視界の端でなにか動いた。


(――え?)


 もうひとり。

 現れたのは、もうひとりのモルテ。

 そのモルテが、ひとり目のモルテの喉笛を掴み――

 そのまま、壁に叩きつけた。



 誰?

 その可憐なくちびるから漏れ出たのは、モルテが到底口にしそうもない、ドスの効いた台詞だった。


「モ、モルテ……?」

「ああん?」


 ふたり目のモルテが、ギロリとこちらを睨む。

 怪訝そうにしかめられる眉。


「そっか。てめーには、アタシらがモルテに見えてンのか」


 そう言って、ふたり目のモルテは空いているほうの手でバケツをつかみ、中の水を思い切りおれの顔に浴びせた。


「ぶはッ! え? え……ぶべらっ」


 呆気にとられていると、さらに頬を張られた。

 じんじんという痛みとともに、だんだんと頭がはっきりしてくる。


「よォ。目ェ覚めたかい?」


 ニヤリと笑みを浮かべているのは、モルテではなくリナだった。


「えっ? それじゃあ……」


 リナが喉を締めあげている相手は――プラスィノ!?


「コイツの出す甘い匂いを嗅いだろ? ドライアドはそうやって幻を見せ、男を誘うのさ」

「ベルデの言った通りってわけか」

「ドライアドの幻術は、魔法じゃあなく毒の一種なんだ。だから、アタシらゾンビには効かない」


 プラスィノは必死に抵抗するが、リナはびくともしない。

 ゾンビである彼女は脳のリミッターも機能していないから、とんでもない馬鹿力が出るのだ。


「ご……ごべ……なさ……」


 プラスィノの目には涙が浮かび、泡も吹きつつあった。

 襲われたことはショックだったが、これはすこしかわいそうだ。


「リナ」

「離してやれってか?」

「これもベルデが言ってたんだ、これは本能からの行動だって。彼女に悪意があったとは思えない」

「チッ……おい雑草、聞こえたか? 余計なマネしやがったらその瞬間、首をひきちぎるからな」


 プラスィノはコクコクとうなずく。

 リナが指の力を緩めると、プラスィノはズルズルと床にへたり込んだ。

 激しく咳き込むので、部屋に戻って水差しからコップに水を入れた。

 ふたたび廊下に出ると、ふたりのそばにモルテも立っていた。

 物音を聞きつけて起きたという感じではない。


「大丈夫?」


 おれはプラスィノの前に膝をついて彼女の口許をぬぐってやり、コップを手渡した。


「あ、ありがとうございます……あ、あんなことをしたワタシに……」

「おれも言いたいことはあるけど、ひとまず君の話を聞きたい。こっちからも質問すると思うけど、ちゃんと答えるんだよ」

「は、はいぃ……」


 プラスィノは不安そうに顔を上げ、モルテと目が合ったとたん、慌てて下を向いた。


「怖がらせるなよ」

「そんなつもりはありませんが」


 モルテは、プラスィノを見下ろしたまま、むっつりと答えた。

 これは……明らかに怒ってらっしゃる。


「ほ、ほら。おれは無事だったんだし、とりあえず深呼吸して」

「そうじゃねーよ、霧矢。自分の男にちょっかいかけられたんだぜ。結果はどうあれ、いい気分のわきゃねーだろ」


 リナが呆れたように言った。


「それはそうかもだけど」

「その上テメーは、コイツをかばうようなことを言う。なあ、ひょっとして、助けが入って残念とか思ってねーだろうな?」

「そ、そんなわけないだろ!」


 突然なにを言い出すんだ、お前は。

 ちがうからな、と隣のモルテに視線で訴える。

 うう、目が冷たい……


「言っとくけど、ドライアドコイツらの繁殖方法は、生き物を苗床にして、そこに種を植えることだからな。ま、夢見心地で気持ちいいは気持ちいいかもしんねーけど」

「種を……」


 ドライアドを栽培する畑状態になった自分を想像したら背筋が凍った。

 そんな危機的状況だったの? おれ。


「ごめん、モルテ。おれ、なにもわかってなかった」

「いえ、それはもういいです」

「でも、かたちはどうあれ君を裏切りかけてたわけで――」

「そこで朗報」


 リナが声のトーンを一段上げた。


「幻の中で、霧矢コイツはアタシらがお前に見えてたらしいぜ。よかったな、モルテ。つまりコイツは、心底お前に惚れてると証明されたワケだ」

「な……っ! リナ、お前なんてことを!」


 たとえ事実でも、そんなはっきり口にされたら恥ずかしいだろ!

 いや、事実か?

 そこまでおれ……いやいやいや、考えたら余計に。

 モルテもモルテでなにも言わないなと思ったら、なんか真っ赤になって俯いてるし!

 や、やめろぉ~。

 いたたまれない空気。

 それを作った当人は、おれとモルテの反応を見てニヤニヤしてやがるし。


「そ、そんなことより! プラスィノの話を聞くんだろ!」


 なんかごめん、プラスィノ。

 でも、これが本来の流れだから。


「は、はい……ですが話といっても、前にお話しした以上のことは……」


 プラスィノが申し訳なさそうに身を縮める。


「あ、で、でも……元は幻界にいたはずのワタシが、たまたまこのお邸にやってきたとは、やっぱり……考えにくいと思います」

「誰かがなんらかの意図をもって、君を庭の畑に植えたってこと?」


 こくり、とプラスィノがうなずく。


「モルテはどう思う?」

「プラスィノさんのお話に嘘はないと思います。確定ではありませんが、真実である可能性は濃厚といったところでしょうか」

「冷静だね」


 とてもさっきまで、おれと一緒に照れまくっていたとは思えない。


「予想はしていましたから。ただ、確信はなかったので、ようすを見ていたのです」

「てことは、今夜のことも想定済みだったんだな」

「申し訳ございません。気分を害されましたよね」

「そうだな。よくはない」

「裁定者たちの件でおわかりでしょうが、わたしには敵が多いのです。とはいえ、このようなやり方に頼ってしまうのは、わたしの至らなさに他なりません」


 ひょっとしたら、モルテが怒っているように見えたのは、自分に腹を立てていたせいなのかもしれない。

 そう思うと、これ以上彼女を責める気にはなれなかった。

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