第40話 幻惑の芳香

 プラスィノのハイテンションは困りものだったが、暗くて湿った場所に置いてしばらくすると落ち着くのがわかった。もやしか。


「あ~……やっぱりいいですねえ、この環境」


 すっかりいつもの状態にもどったプラスィノは、まるで縁側でくつろぐおばあちゃんのようだった。

 いや、この場合、日向ぼっことは真逆なのだが。

 ハイテンションが長く続くともどったときの反動も大きいらしく、最初はかなりぐったりしていた。


「はい、水。調子はどう?」

「ありがとうございます……へへ……お優しいですね、霧矢さんは」


 プラスィノは、にへらっと笑うと、おれから受け取ったペットボトルに口をつけ、すごい勢いで水を飲んだ。


「そりゃあ心配にもなるだろ。人が変わったなんてもんじゃなかったからな」

「ぷはっ……こ、今後は身体のようすを見極めつつ、適度にふたつの状態を行き来してみることにします」

「えっ、またアレになるの?」

「た、太陽を浴びることも成長には必要ですので……」

「そっか。植物だもんなあ」


 成長するため、か。


「つ、疲れるから嫌ではあるんですけど……」

「それでも頑張れるんだから、プラスィノはえらいよ」

「そ、そうですか?」


 顔を赤くしながらも、プラスィノは、えへ、えへ、と肩を震わせた。

 実際、えらいと思う。

 居場所を失うことを恐れるあまり、ギリギリまで一歩を踏み出せなかったおれに比べれば。


「も、もっと褒めてくれてもいいんですよ」

「意外と欲しがりなんだな」


 そう言われても、いま思っていたことをそのまま口にするのは恥ずかしい。

 とっさにおれが取った行動は、プラスィノの頭をなでることだった。


「……え?」

「ん?」


 やってしまってから、しまったと思う。

 プラスィノに幼いイメージがあったせいか、にするように接してしまったが、ドライアドという種族相手に、果たして適切な行為だっただろうか?


「ご、ごめん。馴れ馴れしかったかな?」

「い……いえ。あ、ありがとう……ございます」


 プラスィノは照れた(?)ように俯く。

 人間のように赤くならないから、感情が読みにくい。


「も、もう行くから」

「はい……お勉強、がんばってください」


 背中に刺さるプラスィノの視線にねっとりとしたものを感じたような気もしたが、たぶん、気のせいだろう。






「ドライアドだと?」


 大学でベルデにプラスィノのことを話すと、彼女は驚いたような顔をした。


「うん。なんでか邸の畑に紛れ込んでたみたいでさ。いきなり見たこともない草が生えててびっくりしたよ」

「妙だな。そんなものがどうやって……」

「やっぱり珍しいの?」

「ドライアドの種子は風に乗れるような形状ではない。鳥が運んできたのだとしても、どこで飲み込んだのかという話になる」


 鳥だとすると、フンに混じってということか。

 あんまり想像したくない。


「べつに悪い子じゃないと思うけど」

「ドライアドというからには、見目も麗しいのだろう?」

「変に勘繰るなよ。そういうんじゃないって」


 おれが手で払いのけるような仕草をすると、ベルデは視線をモルテに向けた。

 他人事のような態度だが、お前はなにを考えている?

 そんなベルデの無言の問いに、モルテも沈黙をもって答えた。


「……まあ、お前がそれでいいのなら、私は構わんが」

「なにかマズいことでも?」

「ドライアドは生き物だ。種の繁栄のため、本能として彼女らはそうする。悪意の有無に関わらず、な」

「そうなの?」


 モルテを振り返る。

 彼女にに驚いたようすはない。

 ということは、とっくに知っていたのだろう。


「ご忠告、感謝いたします。ですが、ご心配には及びません」

「ずいぶんな自信だな」

「ええ。だってキリヤ君が、わたしを裏切るはずがありませんもの」


 一点の曇りもない笑顔で言い切る。

 そこまで信頼されると、なんか逆にプレッシャーが……。

 も、もちろんおれは、プラスィノに対してやましいことなんて、なんも考えてないからな!


「うわぁ……惚気ときたか」


 ベルデはと見ると、心底嫌そうに顔をしかめていた。






 その日の夜も、おれたちはプラスィノと共に食事をした。

 特段変わったようすはなく、ほぼほぼいつもどおり。

 今日の出来事を話したり、料理の味を褒めたり。

 冗談をとばすのは主に陸だが、たまにモルテも真顔でボケたりする。

 プラスィノは、相変わらずオドオドしつつも、ちゃんとリアクションしている。

 変化があったとすれば、そこか。

 打ち解けたことによる心の接近。

 度合いで言えば、プラスィノが一番大きい。

 それは、彼女の成長を示している。

 庭に生えた時点では幼子のようなものだったとすれば、当然と言える。

 彼女は、周囲から受ける刺激を貪欲に吸収している真っ最中なのだろう。


 ふと――


 目が合った。

 そのとき、プラスィノが微笑みかけてきたようにも見えたが、あまりにも短い一瞬だったのでよくわからなかった。

 確かめようにも、長い髪の毛と俯きがちな姿勢のせいで表情が見えない。


(気のせいだったか)


 変わりつつあるといっても、彼女本来の内気な性格はそのままだ。

 そんな彼女が男を――つまりはおれを、誘惑するなんてあり得るだろうか?

 やっぱり、想像がつかない。

 モルテが放置しているのも、ベルデの心配が杞憂にすぎないとわかっているからなのかも。

 ひとまず考えるのを保留して、その日は眠りについた。

 深夜、目を覚ますと、部屋の空気がいつもとちがっていた。

 どろりと重く、かすかに甘い香りがする。

 気がつくとベッドを降り、廊下に出ていた。

 香りはさらに強くなり、頭の奥が痺れるような感覚があった。

 誰かが立っている。

 窓から差し込む月明りが、足許を照らしていた。


「キリヤ……君」

「モルテ?」

「……はい」


 女が手を差しのべる。

 むきだしの褐色の肌。

 光る産毛までよく見えた。


「こちらへ」


 手を取られ、導かれるまま暗がりへと引っ張られてゆく。

 抵抗する気はまるで起こらなかった。

 だって、そうする必要がどこにある?

 待っているのは――

 甘い香りはさらに強まっていた。

 むせかえるほどに。


「モルテ……」

「はい。あなたのモルテはここに」


 壁に押しつけられたおれに、覆いかぶさるようにモルテが身をよせてくる。

 しなやかで、温かく、どこまでも心安らぐ。

 ああ、このまま――

 どこまでも、どこまでも堕ちてゆく。

 喜びと期待に満たされながら、おれは深淵に引きずり込まれていった。

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