第2部

第32話 雨の日

 静かだ。

 といっても、無音というわけではない。

 降り続く雨が地上のありとあらゆるものを間断なく打ち叩き、平坦な静寂を作りあげている。

 それを聴いているのか、いないのか――

 窓際に座るモルテは、物憂げな表情で灰色の梅雨空を見上げていた。

 ほう――というため息が、おれの耳にも届いた。

 なにを考えているのか。

 悩みや心配事があるのだろうか。

 気になったが、おれは訊ねるのを躊躇っている。

 恋人同士になったとはいえ、いきなりは不躾だろうという思い――

 いや、それよりも。

 彼女の横顔がひどく魅力的で、もうすこしだけ眺めていたいという欲求に抗えなかったのだ。


(やば)


 自覚したとたん、火がついたように顔が熱くなった。

 そこまでおれは、モルテにベタ惚れだったか?

 まったく。思春期の中学生じゃあるまいに!


(あ……)


 心臓が跳ねる。

 おれの存在に気づいたモルテが、首をこちらに向けたのだ。

 惜しいような――けれども、彼女の紅い瞳がおれの姿を捉えているという事実がこの上なく嬉しいような。


「キリヤ君?」


 モルテがかわいらしく小首をかしげる。


「どうかしましたか?」

「あ――雨、だね」


 ……って、なにをいってるんだおれは!?

 天気の話題なんて、会話デッキになにもないときに仕方なく振るやつじゃないか。


「そうですね。ジメジメしてますね」

「モ、モルテ的にはどうなの? 日本の梅雨は」

「実をいうと、それほど好きではありません。亡骸の保存に苦労しますから」


 そこかー!

 死霊術師ネクロマンサーといえばお墓とか地下室とか、暗い場所のイメージがあるから、結構好きなんじゃないかと思ってた。

 訊いてみないとわからないものだな。


「じゃあ、早く晴れないかな、とか考えながら外を見てたわけだ」

「はい。それもありますけど……」


 モルテの視線が揺れ、ほんの少し、頬が赤くなった。


「幸せを、噛みしめていました」

「え?」

「だって、キリヤ君のほうからいってくれたんですよ。“好きだ”って」


 がふっ。

 いま、おれの中で、もうひとりのおれが血を吐いて死んだ。

 なんだ、その、セリフとはにかんだような笑顔。

 ダメだ。このままでは溢れてしまう。

 モルテへの想いが。

 このまま抱きしめて。

 それから――それから――


「でも」


 暴走しそうになっていたおれを思いとどまらせたのは、不意にトーンを変えたモルテの声音だった。


「幸せだと思えば思うほど、不安な気持ちにもなるんです。……キリヤ君……キリヤ君は、わたしが怖くありませんか?」

「そんな、怖いだなんて――」


 いいかけたところで、おれは彼女がなにをいいたいのか悟った。

 先日の、裁定者たちとの戦い――

 戦いそのものを、おれは見たわけではないが、彼らの心を折り、恐怖を植えつけるまで、徹底的に痛めつけた。

 それは、おれの知らない――おれに知られまいとしていた、モルテのもうひとつの顔だ。


死霊術ネクロマンシーは、用い方次第で強力な武器にもなります。リスレッティオーネは古くからこの術の大家であり、そこに生まれたわたしもまた、ひとかどの術師として名を知られるようになりました」


 有名になれば、人に請われてその力を振るうこともある。

 いや、それが生きるすべでもあるのなら、積極的に売り込みもしただろう。


「わたしは――」


 モルテが目を伏せ、長いまつ毛が影を落とす。

 一瞬、声が震えたが、次に言葉を発したときには元にもどっていた。


「わたしはかつて――多くの人を傷つけました。命を奪い、命を奪った相手の骸を操って、さらなる死をもたらしたこともありました。とても口には出せないような、おぞましい所業に手を染めたことさえ……キリヤ君と出会ったあと、幻界にもどっていた10年間は、そうした過去を清算するためのものでした」

「10年……」


 それだけの時間をかけても、すべてを清算することは叶わなかったのか。

 だから、裁定者たちはモルテを狙った。


「そうか。おれが事故に遭ったりしたから――」

「ちがいます! それだけわたしが多くの罪を重ねたからで……キリヤ君は、なにも悪くありません」

「罪……罪ねえ……」


 おれは額に指をあてて首を振った。

 ついこのあいだまで、おれもそうやって自分を責めていたからよくわかる。

 だけど、そんなのは――


「ところで、モルテって何歳いくつなの?」

「な、なんですか急に!?」


 モルテが動揺して目を瞬かせた。

 当然だろう。唐突だという自覚はある。


「いや、人間同士だと失礼にあたったりするけど、エルフにもそういうのあるのかなーって思って」

「い、いえ……わたしたちは、人間以上に見た目で年齢がわかりにくい種族なので、むしろもっと簡単にわかる魔力の質と量を比較することが多いですかね」

「てことは、おれにエルフの年齢を当てるのは難しいか」

「正直、自分でも正確なところは覚えていなのですけれど……だいたい450歳といったところでしょうか」

「こっちの歴史だと、戦国時代くらいに生まれたことになるね」

「それがなにか?」


 モルテは首を傾げた。


「たとえばの話、おれが戦国武将の家に生まれていたら、人を殺さず生きていくことは難しかったと思わない? もちろん、最初に出会った敵にやられたりしちゃったら別だけど」

「たしかに」

「常識や倫理観なんて、時代や場所によって変わるもんだろ。ましてやモルテは人間よりずっと長生きなんだから、そうした変化をいくつも体験してきたはずだよね」

「………」

「だから……その……あんまり気にしなくていいっていうか……話せるときに話してくれればいいし、話したくなかったら黙ってくれててもいいんだ」

「キリヤ君……」


 おれを見つめるモルテの目が、徐々にキラキラしてくるのがわかった。


「ありがとう……ございます。そういって頂けて、とても救われた気持ちです」

「そ、そもそも! おれの何十倍も生きてるんだから、過去を全部話そうったって大仕事だよね。夜通しかけても何日かかるか」


 照れ臭さから、おれはすこし早口になった。


「ああ――でも――話したいことは、たくさんありますよ。キリヤ君を前にしたら、ずっと気にも留めていなかった思い出が、どんどん溢れてくるんです。わたしの生まれ故郷に、小さい頃の思い出……初めて魔法を使った日のことや、旅をしていた頃のことなんかも」


 モルテが身を乗り出し、おれの手に自分の両手を重ねた。

 もう、震えてはおらず、興奮のためか熱くなっているように感じられた。


「聞かせてよ。モルテのこと、もっと知りたい」

「わかりました。でも、寝不足になっても知りませんよ?」


 口許に手をあて、いたずらっぽくモルテは笑った。

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