第30話 告白
魔染領域については聞き知っていたけど、実際に足を踏み入れるのは、もちろん初めての経験だった。
大気中のマナには色も匂いもないので、周囲は柵で囲われ、警告の標識もでかでかと掲げられている。
柵の出入口には警備員も立っているのが、通行自体は割と自由で、幻界人らしい恰好をしていれば、ほとんど見咎められたりはしない。
さすがに中心にある《回廊》を潜るとなれば、そうはいかないだろうが。
領域に入った瞬間は、肌感覚でわかる。
冷たいような、暖かいような。
重いような、軽いような。
知覚が矛盾した情報をとらえ、同時に呼吸が苦しくなる。
ふわふわと足許が覚束なくなり、頭の芯に鈍い痛みが走る。
「マナ酔いの兆候ってやつか」
リナにもらった中和薬を取り出し、口に放り込む。
立ち止まったまま何度か唾液を飲み込んでいると、動き回っても問題ないくらいは楽になった。
気を取り直して歩き出す。
魔染領域では元からあった建物はあらかた撤去され、代わりに幻界の樹が植えられている。
こちらのものとそう変わりはないものも多いが、幹や葉の色が紫やピンクだったり、どう見ても動物っぽい器官がついていたりするのも混じっている。
とはいえ、いちいち驚いているヒマはない。
マナに身体を慣らすため、《回廊》付近にモルテはしばらく留まっているはずだが、もし《回廊》を超えられてしまえば、もう接触する手段はなくなるのだ。
そんなことを考えてたおれの目に、明らかな異常が飛び込んできた。
破壊の跡。
樹々はなぎ倒され、地面は大きくえぐられたり、ドロドロに溶けて悪臭と白い煙を放っていたりした。
いったい、なにが……?
すこし行くと、人が倒れていた。
顔に見覚えはなかったが、衣服を見て裁定者だとわかった。
「大丈夫か?」
息はある。
あちこち負傷もしているものの、命に別状はなさそうだ。
そいつは、はっと目を覚まし、おれを見ると、ひきつったように顔を歪ませた。
「ひ……ひィィィィ! よ、よせ……! 俺が……俺が悪かった!!」
めちゃくちゃに叫んで、おれを突き飛ばしたかと思うと、頭を抱えてうずくまり、ガタガタと震え出す。
こいつも、どうしたっていうんだ?
……いや。
起きたこと自体は明白だろ。
戦闘。
誰と?
決まってる。
おれは駆け出した。
すぐに、見知った背中を発見する。
「モルテ!」
彼女は弾かれたように振り返った。
驚愕と脅えの混じった、悲しげな表情を浮かべて。
「どうして……」
周囲を確認すると、白装束が何人も倒れていた。
動く者はひとりもいない。
「生きてるのか?」
「はい。殺せばそれでおしまい、という考えは愚かです。それでは恨みが残りますし、
淡々と口にしてから、モルテはおれに向き直った。
その顔には疲れが見えた。
なにかを激しく嫌悪し、怒り、諦め――脅えているように、おれの目には映った。
不思議だ。
おれの何十倍……いや、下手したら何百倍も長く生きているはずなのに、いまのモルテは、まるで小さな女の子のようだった。
「なにをしに来たんですか?」
「君を連れ戻しに来た」
「わたしのそばにいたら、あなたも危険に巻き込まれます。だから、わたしは――」
「それでも一緒にいたい。やっと、そう思えるようになったんだ」
おれの心が決まるのを、モルテはずっと待ってくれていた。
その結果がこれだというなら、責任はおれにだってある。
モルテやリナが責めなくたって、おれ自身が納得できない。
だから、なんとしてもモルテを連れて帰るつもりだった。
「モルテ。ずっと秘密にしてたことがある」
彼女の手を取った。
土煙を浴びたのか、ひどく汚れ、こわばった指が震えている。
「おれは、君の知る真名井霧矢じゃない。魂だけが飛ばされてきてこの身体に宿った、別の世界の真名井霧矢だ」
モルテは無言のまま、大きく目を見開いた。
おれの言葉の意味するところを、ゆっくりと咀嚼しているようだった。
「では……こちらの霧矢君は?」
「わからない。おれと入れ替わったのか、それともさらに別の世界にいったのか。もどってこれるのかどうかも……」
「そう……ですか」
「ずっと、話す勇気が持てなかった。でも、話さないまま君の気持ちを受け容れてしまえば、おれは、こっちのおれの人生を奪ってしまうことになる」
ああ――と、モルテは天を仰いだ。
彼女にとっては残酷な真実だろう。
でも、それを隠したままでは、おれの覚悟が示せない。
彼女を安心させてやれない。
どれくらい、そうしていただろう。
ふたたび、おれの方を向いたモルテの顔は、悲痛に歪んでいた。
ごめん、モルテ。
それでもおれは――
「お辛かったでしょう」
「え?」
モルテの言葉は、完全におれの予想の外だった。
「そんな大きな秘密を、独りで抱えていたのですね」
包み込むように、モルテはおれを抱きしめた。
「独りで悩んで。独りで苦しんで――よく話してくれました。ありがとうございます」
なんで――
どうして、モルテがお礼をいうんだ?
どうして、モルテがおれを慰めてるんだ?
逆だろ。
辛いのは、好きな人を失ったモルテのはずだ。
それなのに……
「ご……ごめん……ごめんなあ……モルテ」
いいたいことはたくさんあったはずなのに、いろいろなものが一気に溢れ出して、ひとつも言葉にならなかった。
それでもモルテは、おれを抱擁したまま、辛抱強く待っていてくれた。
ようやく気持ちが落ち着いたところで、おれはぐちゃぐちゃの、世界一みっともない顔のまま、たった一言。
心からの言葉を告げた。
「君が好きだ」
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