第29話 帰路
「ねえ、なんでそんな顔してるの?」
振り返ると、小さな男の子が不思議そうにモルテを見上げていた。
かわいらしい顔立ちはどことなく気品を漂わせ、独特の形状をした新品の鞄――ランドセルというらしい――を背負っている。
おそらく今年、初等教育機関に通いはじめたばかりの子供だろう。
「べつに」
そっけなく答える。
モルテは疲弊していた。
幻界側は、陣営ごとに様々な思惑を持って人員を人界に送り込んでいたが、とりわけモルテの所属する一派のそれは、ろくでもないないの一語に尽きた。
他者を出し抜き、騙し、未踏の異世界で得られる利益をすこしでも多く掠め取る。
そのためには手荒な手段も厭わない。
秘密裏に行われる醜い所業をいくたび目にし、モルテ自身もまたひとたびならず手を汚してきた。
(こんなところまでやってきて、いったいなにをしているのか)
虚しさに蝕まれ、心の色を失いかけていた――そんな折、彼と出会った。
「ほらほら! 見てよこの花。なんでこんなかたちしてるのかなぁ?」
「え? かっこいい石をさがしにいくんだよ。見つけたらお姉ちゃんにもあげるね!」
「へへー。見て! 手、こんなんなっちゃった。寒いのに、赤くて熱くてじんじんするんだぁ」
ほんとうに。ほんとうによく笑う少年だった。
あらゆるものに興味を抱き、常に新しいものを見つけては、その喜びを誰かと共有したがる。
いつしかモルテも、少年から目を離せなくなっていた。
色々なものにふれさせ、次はどんな表情をするのか知りたくなった。
ずっと見ていたいと思うようになった。
心を……通わせたいと願うようになった。
この、小さく、か弱く、儚い生き物と。
◇
都内某所――
“大合”時にあいた、幻界と人界を繋ぐ大穴。
そこに築かれた《回廊》の周囲1kmは、幻界の住人以外、立ち入り禁止区域に指定されている。
《回廊》から漏れ出すマナにより“マナ酔い”が起こるからだ。
個人差はかなりあるが、軽度で頭痛や眩暈、吐き気。重度ならば意識の混濁や吐血、最悪死に至る。
逆に、幻界から来たばかりの者にとっては、マナの薄い人界に踏み込む前の“慣らし”を行う場にもなっている。
いわば、河口付近に広がる汽水域のようなその場所は、魔染領域と呼ばれていた。
《回廊》から外へと放射状に伸びる道を、逆方向に辿る者がいる。
モルテ・リスレッティオーネであった。
はあ、というため息。
「本当に、最悪……」
幻界への帰路は、いつもそうだった。
愛する者を残していかねばならない。
前回もそうだったが、今回もまた、面倒なあれこれを片づける必要がある。
モルテが後ろを振り返ろうとしたとき、彼女の周囲を複数の人影が、音もなく取り囲んだ。
「どうした? そっちに未練でもあるのか?」
純白のコートに身を包んだひとりが、粘つく声で訊ねた。
モルテは苛立ちを隠そうともせず、髪をかきあげて相手を睨んだ。
「ええ、そうです。未練しかありませんよ。こちらでの暮らしは、とても満ち足りたものだったのに」
「薄汚いダークエルフには分不相応だったってだけさ」
裁定者たちの嘲笑を、モルテは聞き流した。
いちいち反応して、彼らを喜ばせる必要はない。
「じゃあ、一番手は俺だな」
「おう、せいぜい派手に散ってくれよ、アローガ」
「いってろ」
囲みの中からひとりが進み出て顔を晒した。
エルフとしてはまだ若い。
軽薄さと傲慢さが表情に滲み出ている。
「全員でこないのですか?」
「俺たちの目的は力試しだ。噂に高い厄災のモルテを倒せば実力を証明できる」
「くだらない遊びですね。本来なら、そんなことに付き合わされるなんて御免ですけど、こうして出てきてくれたのには感謝いたします」
モルテはマントの下から愛用の杖を取り出した。
人界ではついぞ振るう機会のなかった、彼女の武器である。
それを見て戦闘意欲ありと取ったのか、アローガは嬉々として剣を構えた。
「前口上はいい。いくぜ、そらぁっ!」
猛然と突進し、斬撃を繰り出す。
それを、地面から生えた巨大な鎌が受け止めた。
「なに!?」
モルテの足許に浮かび上がった魔法陣。
そこから漆黒の衣を纏った死神が姿を現す。
「ドレッドリーパーだと!?」
使役できるアンデッドとしては最上位といわれるモンスターのひとつである。
だが、アローガもさすがに裁定者というべきか。
驚きはしても、戦意を失いはしない。
慎重に距離を取り、隙を伺う構えを見せた。
モルテはさらに、杖で地面を突いた。
たちまち、最初のものより小振りだが、おびただしい数の魔法陣が周囲に現れた。
そして湧き出すスケルトンの群れ――
さらには後方に、巨大なボーンドラゴンを召喚する。
「まどろっこしい真似はやめにしましょう。あなた方全員、同時にお相手いたします」
「舐めおって!」
戦闘態勢に入った裁定者たちを見て、モルテは小さく笑った。
人界を去るにあたり、残していく霧矢に危険が及ばぬよう禍根を断っておく必要がある。
ついでにすこしばかり、スッキリさせてもらうつもりだった。
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