第28話 彼女のいない朝

 邸にもどったとき、おれはひどく疲れていたが、逆に目は冴えていて、眠ることができなかった。


「ちゃんと休まなくてはだめですよ」


 そういって、モルテはおれの部屋で香を焚いた。

 どうせ聞いてもわからないだろうと思い、香の種類は訊ねなかったが、甘い匂いが部屋を満たす頃には、まぶたが錘でもぶら下げられたように重くなった。

 そのままぐっすり、一度も目覚めることなく朝を迎えた。

 ぐっ、とベッドの上でのびをする。

 疲れは完全に取れ、体中に生気がみなぎっている気がした。

 こんなすがすがしい朝は、生まれて初めてかもしれない。


「おはよう」


 食堂でリナに声をかける。

 テーブルに視線を移し、そこでおれは「おや?」と思った。

 皿の数が少ない。


「お前と亜陸の分だけだ」


 おれが訊ねる前に、リナがいった。


「モルテは留守か。なにか用事が?」

「そうだな」

「帰りはいつ?」

「あいつはもどらない。この先ずっと、たぶん――」


 なに?

 おれの聞き違いか?


「どういうことだよ、リナ!」


 自分でも驚くほど大きな声が出た。

 ちょうど入ってきた陸が、びくっと身をすくませる。


「ど、どうしたの兄さん」

「それを、おれが訊いてるところだよ」


 睨むようにリナを見ると、彼女は、やれやれというようにため息をついた。


「幻界に帰ることにしたんだ。お前を巻き込んじまったって、責任を感じてな」

「そんな……」


 陸が呻くように呟く。


「亜陸のことは心配いらない。あいつが生きてる限り魔力は供給され続けるから、動けなくなる、なんてこたーない」

「いや……待って」

「アタシも荷物をまとめてすぐに後を追う。この邸は好きに使っていいぞ」

「だから待てって! そうじゃないだろ!」


 おれは声を張りあげて、リナの言葉をさえぎった。


「なんでモルテが帰らなくちゃいけないんだよ? 彼女は悪くないだろ」

「ああ。けど、今回みたいなことは、この先何度だって起きる」


 それは、モルテがダークエルフだから。

 彼女が死霊術師ネクロマンサーだから。

 なにも知らない者や、自らの正しさを疑わない者たちから迫害され続ける宿命にある。

 傍らにいる者もまた、そうした悪意からは逃れられない。


「だから、モルテはお前を解放することにしたんだ」

「なんの相談もなくか?」

「そりゃあ、お前が迷ってたからだろ」


 リナはいきなり核心を突いた。

 その通りだ。

 おれはずっと、このままモルテのそばにいるべきか否か迷っていた。

 いまもそうだ。

 本当は、モルテがいないと聞いた瞬間に全部わかっていたくせに、気づかぬふりをしようとした。


「べつに責めやしねーよ。お前はなにひとつ悪くない。まだ生きられんのにゾンビになれっていわれたら、アタシだって嫌だからな」

「でも、それじゃあモルテは……」


 目的のない人生は虚しいだけだと彼女はいっていた。

 そんな暮らしに、またもどるってのか?


「兄さん」


 袖を引かれ、顔をあげると、沈痛な面持ちの陸と目が合った。


「いいの? このままじゃ、モルテお姉ちゃんに会えなくなるんだよ」

「あ、ああ……」

「ひょっとして、まだ死霊術ネクロマンシーが悪いものだって思ってる?」

「それは……」

「わたしはそうは思わない――ううん、たとえ悪いものだったとしても構わない。だって、こうしてまたお兄ちゃんと話せるし、さわることもできるんだから。どんな犠牲を払ったって、わたしが欲しいと思ってたものだよ」


 よかった。

 心の片隅で、ずっと不安に思っていた。

 生き人形リビング・ドールとして蘇らされたことを、陸が恨んでいるのではないかと。


「モルテお姉ちゃんは恋敵だけど、それ以上に感謝もしてる。だから――いなくなるのは嫌だよ」

「霧矢、流されんなよ」


 リナがぴしゃりといった。


、お前も亜陸も平穏な暮らしにもどれる。そいつは、お前と妹の未来に責任を持つ立派な選択だ。なんら恥じるところはねーよ」


 やっぱり、リナは優しいな。

 立場的にも心情的にも、モルテ側の彼女であれば、おれを責めてもおかしくないのに。

 けれど一方で、それはとても残酷だ。

‟お前はモルテとなんの関係もない”と――そういわれたに等しいからだ。


「兄さん……」


 おれが無言なので不安になったのか、陸が下からのぞきこんできた。

 大丈夫だよ、と微笑んでみせる。

 おれは、もう決めた。

 自分でも呆れるほど時間がかかったが、ようやく心が決まった。

 あいつを――モルテを、独りで行かせたりはしない。

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