第4話 セフィリア

 筑後川は、彼の助手役を引き受けたレアを連れてふたりで地下室へと向かった。細く薄暗い階段を下ると、扉はなく唐突に直方体の空間が開け、左右には黒褐色の棚が連綿と並び、そこにはおそらく年代物の稀少な高級ワインがびっしりと陳列・保管されていた。ここにあるボトルを全て売り払ったとしたら一体どれほどの金額になるのだろうと、筑後川はついそんなことを考えた。


 しかし取らぬ狸の皮算用――もとい取れぬ狸の皮算用も済まないうちに、筑後川はこの尋常寺邸にて無残な最期を遂げた哀れな執事の亡骸を発見することとなった。

 小森田繁は、地下室の中ほどの中心に仰向けで倒れていた。

 歩み寄って確認する筑後川。左胸にナイフを突き立てられて自らの血溜まりに沈む小森田氏は、はっきりとその顔に戦慄を刻みつけて死んでいた。


 有り体に言って、筑後川は落胆した。被害者の仰臥した体勢。左胸に刺さったナイフ。そして驚きと怖れに染まった死に顔は、疑いようもなく彼が真正面から心臓を刃で貫かれて死んだことを物語っている。それは要するに。


「この状況で悲鳴のひとつも聞こえなかったとは……」


 地下室の入り口に扉はなかった。そして状況的に被害者は犯人の存在を認識していたと考えていい。だとすれば殺される直前に怒声や悲鳴を上げるくらいはできただろう。ただひとつ、小森田氏に声を出させずに殺した方法として背後からナイフを突き立てた可能性が考えられたが、それが否定された今、おそらく。


「悠人の犯行ではないのか……?」


 そう考えるよりあるまいと、筑後川は歯噛みしたい衝動を覚えた。悠人が殺人犯ではなく単なる第一発見者だった場合、やはり小森田氏は午後四時半から午後五時直前までの約三十分弱のあいだに殺されたことになる。

 そうなってしまったら、死亡推定時刻に被害者に接触できたのは……。


「どうされましたか、筑後川様」


 心臓の脈が跳ねた。咄嗟に振り返ると、尋常寺家のメイドにして双子姉妹の片割れ、そして筑後川の助手役を務める少女がじっと彼の背中を見つめていた。思わず筑後川は背筋に冷たいものを感じた。


「ああいや、何でもないよ」


 曖昧な笑みを浮かべつつ、筑後川は頭を振った。まだだ。まだ決めつけるな。もっとしっかり考えろ。きっと自分の考えは間違っているはずだ……。


 立ち上がり、改めて周囲を見回す筑後川。何か手がかりになるものはないかと視線を巡らせて……やがて筑後川は地下室の最奥部に目を留めた。突き当たりの壁にはワインを収納する棚が置かれていない。そのため剥き出しになった灰色のコンクリート壁には、冷えた鈍い輝きを放つ四角形があった。


 血溜まりを避け、地下室の奥へと歩みを進める筑後川。目の前に立ってみると、それはドアだった。小窓もついていないそれは酷く簡素で、しかし鈍色で分厚い鉄板でできている分とても頑丈そうだった。


「なんだこの部屋は……」我知らず零す筑後川。


 隠すように地下の奥に設けられた部屋。薄ぼんやりとした照明の下に存在するそれは、錆びかけた重々しい鉄扉とも相まって異質な雰囲気を漂わせていた。きっとただの部屋ではない。むしろ部屋というよりも、まるで何かを閉じ込めておくための、牢獄のような……。


 埃を被ったドアノブに手をかける筑後川。ぐっと捻って押し引きしたがどうやら鍵が掛かっているようで、扉は微妙にガタガタと音を立てるばかりで開かなかった。

 手についた埃をやや眺めたのちジャケットに擦り付け、筑後川は振り返る。彼の三歩分後ろには静かに佇むレアの姿があった。


 どこか恐る恐る、慎重に、躊躇いがちに、筑後川は助手役に問う。


「なあレア、この部屋は一体……」


 そのとき、くぐもった音が地下室に響いた。どうやら上階から届いたらしい。おそらく人の声だった。筑後川は階段の方に目をやった。


「今のは……⁉」


「上の方で何かあったようですね」


 慌てる素振りも見せず淡々とした声音で言うレア。それは彼女の性格由来のように思えて、しかし筑後川はどことなく不審な、あるいは不安ともいえるような感情を覚えずにはいられなかった。


「とにかく上に戻ろう……!」


 運動不足気味の衰えつつある体を走らせて、筑後川は階段を駆け上がった。一階を見渡すが異変らしい異変はない。しかしなにやらもっと上が騒がしい。何かが起きたのは二階のようだった。筑後川は再び駆け出し、早くも額に汗を滲ませながら幅広の中央階段を彼なりの全速力で上っていく。


 ついに二階に辿り着いた筑後川の視界に映ったのは、右手にある部屋の前に群がる尋常寺家の人間たちだった。開かれたドアの前で、セレナ、大伍、悠人が立ち尽くしている。


「何があったんですか!」


 筑後川が駆け寄ると、皆が一斉に道を空けた。そこでようやく筑後川にも部屋の様子が見えるようになったのだったが……彼の視界に入ったのは、純白のベッドを血に染めて重なるふたりの老いた人間の抜け殻だった。


「これは……」


 驚愕しつつも筑後川は状況の把握に努める。ベッドに横たわる形で死んでいるのはおそらく尋常寺貴芙らしい。体調を崩して部屋で休んでいたという情報に合致する。そして彼女に覆い被さるようにして死んでいるのは尋常寺丈言だ。まるでミイラを思わせる容貌だった老人は、今や本当に魂なき空虚な人形と化してしまった。


 ふたりとも鋭利な刃物で殺されたらしい。実に冷酷無比たる刻まれ方だった。心臓をひと突き、それで致命傷だったに違いないが、それだけに留まらず全身至るところに肉を断ち切らんばかりの深い切創が幾筋も走っており、両者ともにどくどくと命の源たる紅い体液を垂れ流し続けていた。


 憎しみだと、筑後川はそう直感した。この邸内を徘徊している殺戮者は、疑いの余地なく憎悪によって死神の鎌を振るっている。


 筑後川は唇を噛んだ。立て得る仮説が消えていく。このままでは受け入れがたい推論を受け入れざるを得なくなると、そう探偵は苦悩した。しかし彼の苦悩など殺戮者にとって気にすることではないのだろう。むしろ殺戮者の目論む終着点は……。


「セフィリアだわ!」


 唐突に尋常寺セレナの絶叫が轟いた。


「セフィリアの怨念が私たちを殺そうとしてるのよ! 私たちが彼女を酷い目に遭わせたから! だから私たちは殺されてしまうんだわ! みんな! ひとり残らず!」


 恐怖に精神が耐えられなくなったのか、ほとんど白目を剥きながら錯乱するセレナの肩を夫である大伍が掴み揺さぶる。


「セレナ、セレナ! しっかりしろ! 気を確かに持て! セフィリアはもうとっくの昔に……」


 しかしセレナの目は夫を見ていない。止めどなく涙を流しながら、狂ったような笑みを浮かべながら、なされるがままに頭を揺らす。


「あは、ははは、何がしっかりしろですって……! あなたが……あなたがあの女に手を出したからこうなったんじゃない……だから私たちは殺されるんじゃない……全部あなたのせいなのよ、あははははははは……!」


 雄叫びじみた哄笑を上げたセレナは、余命の全てを吐き出し尽くしたかのようにそのまま失神して大伍の腕の中に倒れ込んだ。

 妻の錯乱と狂気に当てられたのか、彼女を抱き留めつつその場にへたり込んだ大伍の顔も既に血の気を失っていた。


「セフィリア……そうか、セフィリアか……そうだセフィリアの恨みを晴らすためなんだな……」


 ぼそぼそと呟きを繰り返す父親を見て、ようやく愉快げだった微笑を削がれた悠人が狼狽しつつ捲し立てる。


「ちょ、ちょっと父さん、何をぼさっとしてるんです、そんな風じゃ本当に父さんまで殺されちゃいますよ、母さんの言う通りこれはセフィリアの復讐なんだ、だったら早くあいつを見つけて捕まえないと……!」


 と、そこに新たな悲鳴が轟く。女性のものだった。尋常寺マリアか。咄嗟に振り返り、中央階段を挟んだ反対側の方から聞こえたものと推測した筑後川は、そこで初めて自身の後ろにレアがいないことに気がついた。一体いつからいなかったのか。地下室から二階に向かう段階で既についてきていなかったのかもしれない……!


 焦りを覚えた筑後川は一目散に廊下を回り込んで悲鳴の発生源へと向かう。勢いよく扉を開けようとして、けれど施錠されていて開かない。


「マリアの部屋はもうひとつ先ですよ!」


 追いかけてきた悠人が怒声を上げる。筑後川は隣の部屋の前まで走り、ドアノブを回した。鍵は掛かっていなかった。壊さんばかりの勢いで引き開け、部屋の中に飛び込むと、視界に入るベッド、テーブル、椅子、ドレッサー、クローゼット……そして、床に倒れるマリアとリオの姿があった。

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