第3話 アリバイ
探偵・筑後川令星による殺人事件の捜査が始まった。
筑後川が手始めに行なったのは、各関係者の名前を確認することだった。
老人の名は
中年男性の名は
金髪の中年婦人の名は尋常寺セレナ。大伍の妻であり、生まれはイギリスの純西洋人である。
亜麻色髪の青年の名は
金髪の若い婦人の名は尋常寺マリア。大伍とセレナの長女であり、悠人の妹である。
そして降り止まぬ大雨の中、この尋常寺邸にて殺害されたのは
筑後川は左手にはめた腕時計を見た。時間は午後五時十八分を指していた。
「ではまず、事件が発生・発覚したのはいつでしょうか」
筑後川の問いに一家を代表して答えたのは最も乗り気らしい悠人だった。
「事件が起きたのは四時半から五時のあいだですね」
「それは確かですか?」
「ええ。僕は二階にある自分の部屋にいたんですが、ちょうどその頃にね、少し喉が渇きまして、僕は小森田を呼んでから地下のワインセラーにやったんです。それが四時半頃でした」
日が暮れる前からワインで喉の渇きを癒やそうとはとんだ優雅なお坊ちゃまなことだと内心で毒づく筑後川だったが、表には出さず悠人の話に耳を傾け続ける。
「いつもなら五分もあればボトルにグラスやワインクーラーを用意して戻ってくるんですが、十分経っても二十分経っても帰ってこないので流石におかしいと思いまして。そこで僕はひとりでワインセラーに様子を見に行ったわけです。そうしたらなんと小森田が倒れているじゃありませんか。急いで駆け寄ってみましたが、すぐに死んでると分かりました。なにしろ赤ワインのような血溜まりの中にどっぷり浸かってぴくりとも動かないんですから。すぐにみんなに知らせて、そこからはもうてんやわんやの大騒ぎですよ」
肩をすくめる悠人の眉は悲しげに下がりつつも唇だけは愉悦をかたどっており、それはそれは大騒ぎならぬ大はしゃぎだっただろうと筑後川は確信を持って想像した。
「それじゃ悠人さんが第一発見者なわけですね。ちなみにワインセラーに向かうまでもずっとひとりで部屋に?」
「なるほどアリバイですか」
悠人は知った顔で目を細めた。
「ええひとりでしたよ。でも関係ないですよね。だって第一発見者の僕は、まさに小森田の死体を発見したと主張しているそのときに、実はまだ生きていた彼と対面していた可能性があり、そして彼を殺害した可能性があるんですから」
筑後川は何とも言えず曖昧に頷いた。悠人の言う通り、彼にはアリバイを証明することはできない。本当に被害者をひとりで地下室にやったかも定かでないし、彼が地下室で最初に目にした被害者が既に死者だったかも定かでないのだ。その点で、尋常寺悠人は容疑者筆頭になり得るというのが筑後川の考えだった。
「分かりました。ありがとうございます」
とだけ言って、次に筑後川は尋常寺丈言へと目を向ける。
「丈言さん。あなたは事件当時、どこで何をしておられましたか」
ぎろり、と老いた狼のような眼差しが筑後川を射た。
「わしはずっと自分の部屋におった。悠人のやかましい叫び声を聞くまでずっとな」
「ご自分の部屋、ということは二階に?」
「ああ」
「証明できる方はいらっしゃいますか?」
「我が妻の貴芙であれば証明できるじゃろうよ。そもそもわしが部屋におったのは体調が優れん彼奴を看ておったからじゃからな。……ふん、今は幾分落ち着いておるはずだ、確かめたいのなら後で本人に確かめでもなんでもせい」
「分かりました。それでは後ほどそうさせてもらいます」
丈言の証言に偽りがなければシロということになるだろう……ただし、彼の妻・貴芙がどれほど体調を崩していたのかは分からないし、仮に高熱などで意識朦朧としていた場合、常に丈言の存在を認識できていたとは限らないが……。
そこまで考えて一旦思考を区切り、続けて筑後川は尋常寺大伍へと目を向ける。
「それでは大伍さん。あなたはどうですか」
大伍はごま塩のような眉をひそめると心底つまらなそうに溜息をついた。
「私はその時間ずっと一階の書斎にいましたよ。早急に片付けないといけない仕事がありましてね。午後一からずっと、トイレにも立たず椅子に座りっぱなしでした。私がその場を離れたのは悠人が大声で私たちのことを呼んだときが初めてでしたよ」
「それを証明できる人はいますか」
「ずっとひとりでいたんだ。そんなのいるわけがないだろう」
ぶっきらぼうに言い放ち、右手の人差し指と親指で眉間を揉む大伍。その仕草はまるで筑後川に対して訳の分からないことを言うなと暗に嘲っているようだった。
「分かりました」
筑後川は隣の女性を見る。
「ではあなたはどうですか、奥さん」
問いかけられた女性――大伍夫人・尋常寺セレナは、恐縮した表情で質問者を見た。
「私は……私も、その時間はひとりで二階の自室におりました。読書が趣味なもので、あまり部屋の外に出ることがないんです」
「それを証明できる人は?」
「すみません、証明などは……いえ、あの、そういえば一度娘が部屋にまいりました。あれはひょっとして四時半頃じゃなかったかしら」
自信なげに首を傾げながら母親が視線を向けると、不機嫌かつ退屈そうにしていた長女は、横柄に組んだ脚の上に右肘を乗せて頬杖をつきながら「ええそうね」と無愛想に応えた。
「私がママの部屋に行ったのはそれくらいの時間だったと思うわ」
「間違いなく四時半頃でしたか。お母様のお部屋へは何をしに?」
「時間が確かかなんて知らないわよ。そんなのいちいち気にするわけないでしょ。あとママの部屋に行ったのは暇だったから本を借りに行ったの。ママはそこそこ面白い本をそこそこ持ってたりするから」
「お母様のお部屋にはどれくらいおられましたか」
「一分もいなかったわよ。お目当ての本はすぐ貸してもらえたしね。そしたら部屋に戻るのは当たり前でしょ?」
尋常寺マリアの目つきは、その碧い双眸は非常に美しくともまるで燃える紅と見紛うほど滾っており、およそ聖母の慈愛とはかけ離れた敵意に満ちていた。ここまで気の強い性格をしていては、いくら美しかろうとろくに恋人もできないだろうと筑後川は分析したが、それこそ口が裂けても言えないのであった。
威嚇する猫じみた顔つきのマリアは、ふん、と小さく鼻を鳴らしてそっぽを向き、そこで不意に何かを思い出したような顔をした。
「ああ、あとやっぱりね、私がママの部屋に行ったのは四時半で間違いないわよ。だって私、ママの部屋から自分の部屋に戻るときに階段を下りていく小森田と会ったから。それと確かに小森田、お兄ちゃんに言われて地下に行く的なことも言ってたわ」
マリアの証言。とすると小森田が悠人の指示を受けて単独で地下室に向かったのはどうやら嘘ではないらしい、と筑後川は考えた。ただし、遺体発見時の証言についてはいまだ疑いの余地があるが。
「分かりました、ありがとうございます」
と形式上の礼だけ述べて、そこで筑後川は念のため双子姉妹、リオレアの方へと振り返る。
「ちなみに君たちはどうしていた」
先ほど筑後川が疑われた際にわざわざ主人に反駁してまで助けてくれたレアが犯人だとは――それに助手が犯人だとは――とても考えづらいし、また仮にレアの双子の姉が犯人だった場合には彼女を庇うための格好の生け贄となり得た人間をみすみす助けるはずがないのでリオが犯人である線も薄い……そんな気持ちを抱く筑後川ではあったが、とて真実を突き止めるためにはやむを得ないのだった。
そんな筑後川の躊躇いをよそに、双子姉妹は嫌がる素振りも見せず淡々と答えた。
「わたくしは応接室の扉近くに控えておりました」
「わたくしも応接室の扉近くに控えておりました」
念を押すように筑後川はリオレアを凝視する。
「確かに、ずっと一階にいたんだな?」
「ええ、確かにずっと一階におりました」
助手の断言。つまりお互いに監視状態だったわけか、と筑後川は考え込む。ただし、それこそ共犯関係にあればアリバイは成立しないが……。しかし探偵自らがむやみに助手を疑うべきではあるまい……。
「それじゃ悠人さんが二階から下りてきて地下室に向かうのを見たのか?」
尋常寺邸は玄関から少し進むと開けたエントランス風の造りになっていて、中央に二階へと続く大きな階段が構えている。また地下室へと下る控えめな階段は中央階段の裏手側の壁――つまり応接室から見て左手に視認できる範囲にあり、仮に双子が応接室扉の前に立っていたのなら悠人の行動を認識することが可能だったと思われた。
筑後川の推測通り、リオが頷き、続いてレアも首を縦に振った。
「確かに悠人様が地下へ向かわれるのをお見かけしました」
「午後五時を迎える直前のことでございました」
「ああそういえば僕もリオとレアが立っているのを僕も見かけましたよ。じいっと直立不動で、なんだか応接室を守る
何がそんなに嬉しいのか、悠人は依然として微笑を崩さない。ともすれば嘲笑にも映りかねないその表情をリオレアへと向ける様に、筑後川は腹奥にうずく嫌悪感のようなものを感じつつも平静を保って双子姉妹に質問を続ける。
「悠人さんが地下へ下りた後、また一階に上がってきて異変を知らせてくるまでにどれくらいの時間があった?」
「きっと一分もかからなかったんじゃないかなあ」
割り込んでくる悠人をあえて無視する筑後川。やがて助手役のレアが答えた。
「一分にも満たない時間だったかと思います」
「被害者――小森田さんの悲鳴が聞こえたりは?」
「おやおや筑後川さん、あからさまに僕のことを疑ってるじゃないですか。そもそも僕が犯人だとして、それじゃどうして小森田が約二十分も地下室に籠もりっぱなしだったのかという謎が持ち上がることになっちゃうと思うんですけどねえ」
大袈裟な仕草でさも演技らしく天井を仰ぐ悠人を「念のための確認です」とあしらって、筑後川はレアの言葉を待つ。しかし彼女の返答は期待に添うものではなかった。
「悲鳴も、また言い争う声なども聞こえませんでした」
「そうか……」
再び黙考する筑後川。悠人が地下室に下りてから再び一階に戻るまでに要した時間はわずか六十秒足らず。さらにその間、小森田氏の悲鳴などは聞こえていない。とすれば悠人の証言が偽証で実際には地下室に下りた際に犯行を為したとする仮説は難しくなる……。
……いや。と筑後川はとある考えに至る。この場で問い質してもいいが、しかしどうせ現場を見る必要はあるのだし、ここは直接自分の目で確かめるか……。
「分かりました。それでは一旦、皆さんにお話を伺うのはここまでにして事件現場を見させていただきます」
そう告げて、筑後川は応接室を後にした。
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