第2話 定石

 闇の中から戻ってきたリオは「主人の許可が取れました。どうぞ中へお入りください」と筑後川を邸内に招じ入れた。さっきまで自身が求めていたはずの結果にもかかわらず、今となっては内心気が重い筑後川だったが、こうなっては受け入れるほかないことも経験上嫌というほど知り尽くしていたため、やむなく案内に従った。


 とはいえ探偵としてそこそこ長い年月を生きる者として、既に脳内の大半を殺人事件の四文字が占めつつあるのが筑後川令星という男であった。


「一体どういう状況なんだ」


 筑後川はリオレアに問いかけた。しかし返事はない。双子姉妹は振り返りもせず無言で廊下を進んでいく。自ら語る気はないのだろうかと、筑後川は少し苛立ちを覚えた。


 玄関から少し進むとエントランスが広がる。中央に佇むさながら中世の居城じみた立派な階段の左手に回り込み……やがて立ち止まったリオとレアはそれぞれ左右に立つと、両開きの大扉を恭しく引き開けた。


「こちらへどうぞ」


 リオに案内されて進み入ると、そこは応接室だった。真っ白な壁にはきっと有名な画家が描いたのであろう絵画がいくつも飾られ、煉瓦製の大きな煖炉を囲うマントルピースの上には銀製の燭台が並んでいた。中央には艶々と光沢を放つ総無垢の高級応接テーブルが鎮座し、その周りをこれまた見るからに高価そうな革張りの椅子やソファが囲んでいる。窓も窓とて観音開きの大きなものが並んでいるようだったが、今は悪天候のためかカーテンが閉じられており、その向こうで雨粒の爆撃を受けたガラスがバチバチと煩わしく喚き立てていた。


「お客様をお連れいたしました」

「筑後川様でございます」


 双子姉妹が畏まったお辞儀を向けた先――応接台の周りには、総勢五名の人々が各者各様の色をたたえた顔を突き合せていた。


 ミイラのように痩せ細り、顔は真っ白な眉と髭に覆われた老人の男性。

 半白頭で日に焼け引き締まった体つきをした、見るからに実業家風の中年男性。

 実業家風の男よりも幾分若く、そして金色の髪と碧い瞳をした西洋人の女性。

 亜麻色の髪に碧い瞳をした、おそらく女性の息子らしい三十路手前ほどの青年。

 こちらも女性の子供らしく、母親を二十ばかり若くしたような美しい妙齢の婦人。


 あまりに俗世離れした鼻持ちならぬ余裕と自信と金の臭いを感じた筑後川は、彼らこそが尋常寺家とかいう金持ち一族の面々だと瞬時に理解した。

 つい眉をひそめそうになるのをすんでのところで堪えていると、一番老齢の痩せ細った禿げ男が筑後川を見た。


「其奴か。山に迷い込んだ挙句、土砂崩れのせいで家にも帰れんくなった愚か者というのは」


 開口一番失礼なジジイだと腹立たしい気分を覚えた筑後川だったが、しかしどうみても家内最高権力者の風格を漂わせる老人に即座に噛みついては不利益しかあるまいと、ぐっと怒りを飲み込んだ。


「左様でございます、丈言じょうごん 様」


 躊躇なく肯定するリオに少し物悲しい気持ちを抱きながらも努めて平静を装う筑後川だった。


「ふん」

 と尋常寺丈言はこれ見よがしに鼻を鳴らした。

「ひょっとして貴様が犯人じゃなかろうな? たった今訪ねてきたふりをして、実はずっと敷地内に隠れておったのではないか。そうして隙を見て小森田の心臓をズブリとやりおったわけじゃあるまいな?」


 これには流石に黙っておけないと、筑後川は考えた。対面早々に顔も名前も知らない人間を殺した殺人者だと疑われては、一刻も早く疑いを晴らさねばならない。

 しかし筑後川が身を乗り出しかけたところで、思わぬ方向から助け船を出す人間があった。


「いえ丈言様。筑後川様は犯人ではございません」


 主人の疑念を否定したのはメイドの片割れ、レアだった。彼女はわずかに視線を横にずらしたかと思うと、すぐにその無感情な眼差しを丈言へと戻して語る。


「小森田さんが殺害されたのは雨が降り出した後でした。とすれば犯行時、当家の庭は既に相当泥濘んでいたはずでございます。しかし筑後川様のお車によるタイヤ痕は門から玄関のポーチまで真っ直ぐ伸びたものだけでございました。すなわち筑後川様は玄関以外にお車でお近づきにはなっておられないということでございます。そして当時、玄関には間違いなく鍵が掛かっておりました。さらに事件発生前後、わたくしは玄関が見える位置に控えてもおりました。したがって筑後川様に邸宅内への侵入は不可能でございました」


「よう喋りおるわ人形娘が」

 丈言は苛立たしげに眉根を寄せた。

「玄関以外に鍵の開いた窓などがあったやもしれぬじゃろうが」


 しかしそれにもレアは澄ました顔で反駁を行なった。


「いいえ丈言様。邸内の窓は全て施錠しておりました。なお、仮に小森田さんが自らどこかの窓を自ら解錠されて筑後川様を中へ招じ入れた可能性でございますが、しかしご覧の通り、筑後川様のお召し物もお履きになっている靴もまったく雨に濡れておりません。玄関以外から侵入しようとした場合、まったく濡れずにいることは不可能でございます」


「……ふん。屁理屈ばかり言いおって。もうよい」


 己の敗北を悟ったらしい老人は露骨に不機嫌な顔で吐き捨てるとそっぽを向いた。レアは何も言わず一礼するとまた無言の人形へと戻った。

 望外の助力によって何もせぬまま無罪を勝ち取った筑後川は、内心でレアが行なった論理的な説明に感心していた。筑後川が思うにそれはまるで、先日急に彼の元を去った彼女を彷彿とさせる聡明さであった……。


「まあ、とりあえずあなたが小森田を殺した犯人ではないとしてもだ」


 丈言からバトンタッチでも受けたかのように、今度は白髪交じりの髪をべったりと後ろに撫でつけた五十代半ばほどの彫り深い顔をした男が口を開いた。


「こんな日に我が家へ続く山道に迷い込むなんて怪しいことに変わりはない。そもそもあなたは何者なんだ。本当は何をしにここへ来たんです」


「私は……」


 筑後川は言い淀んだ。何と説明するべきだろうか。実はとある女性が黙って自分のもとを去ったがために自分でも認めたくない傷心旅行という名の放浪中で、水面でかぷかぷと口を開ける鯉のように呆けた顔でドライブに耽っていたところ偶然にも尋常寺邸へと続く山道に入り込んだ挙句、豪雨に伴う土砂崩れによって帰路を断たれこうしてのこのことお世話になりに来ました、なんていい年した中年男性が言えるはずもない。


 そこで筑後川は自身が山道に迷い込んだ理由、すなわち真相については闇に葬り去るという探偵の風上にも置けぬ決意を胸に秘め、嘘を塗り固めるように努めて威厳を込めた声で答えた。


「私は探偵です」


「探偵?」


 半白頭の男の怪訝な声につられて、他の人間たちまでもが一斉に筑後川へと見開いた眼を向ける。

 筑後川は内心たじろぎそうになりながらも表情を崩さない。


「ええそうです。殺人事件を解決するため、私はここに来ました」


「小森田を殺した犯人を見つけるために……?」


 男の隣に座っていた妻と思しき西洋婦人が口許に手を当てつつ流暢な日本語で驚きを顕わにする。よしうまいこと迫力を出せているぞと筑後川は思った。


「でも僕たち、警察にはまだ連絡していませんでしたよね?」


 亜麻色髪の青年が首を傾げた。ちょっとまずいぞと筑後川は思った。


「それに小森田が殺されたのは大雨が降り出した後だったけど、その頃にはもう土砂崩れが起きてたりしなかったのかしら?」


 金髪の若い女性が顎先に人差し指を当てつつ悩ましい顔をつくった。いよいよまずいと筑後川は思った。


「うおっふぉん! ……とにかく、人殺しが起きているとなれば探偵である私としては何もしないでいるわけにはいきません。幸いにも今、お宅のメイドさんのおかげで私が犯人ではあり得ないと証明することもできましたので、ここはひとつ私に事件の調査をお任せいただけないでしょうか」


 特大の咳払いで有耶無耶にしつつ、強引突破で状況を打開しにかかる筑後川だったが、しかし半白頭の色黒男は不快感と猜疑心のこもった目線を向けてくる。


「一体何を言っているんだあなたは。ここは推理小説の世界じゃないんですよ。現実ではね、人殺しは警察の領分で探偵の出る幕はないんです。探偵といえばこそこそ隠れながら誰それをつけ回して浮気の現場を写真に撮る程度の、そんな低級で底辺でつまらない仕事なんだ。だから探偵に殺人事件の捜査なんて到底無理な話なんですよ。そのうえ筑後川さん、あなたは私たちからしたらあくまで自称探偵だ。そんな人にうちの執事を殺した犯人の正体さがしをね、はいそれじゃお願いします探偵さん、なんておいそれと任せられるわけがないじゃないですか」


 男はあからさまに筑後川を嫌悪している。しかし筑後川自身、それは分からない話でもなかった。探偵が殺人事件を捜査するなんて、実際にそれを経験してきた彼ですら作り話めいたことだと思う。

 しかしカッコつけながら名乗った手前、今さら引っ込みがつかない筑後川である。


「確かに本来、殺人事件の捜査は警察の仕事です。しかし今の状況を考えてみてください。外はまれに見る豪雨で道は土砂崩れによって断絶している。つまり少なくとも雨が上がるまで警察がここに来ることはないんです。そして私たちも山を下りることはできません。要するにこの家に閉じ込められてしまっているわけです。つまり現状、ここは――」


「クローズドサークルってわけですね」


 亜麻色髪の青年が口を挟んだ。唇は薄く三日月をかたどっている。どうやら多少ミステリの嗜みがあるらしい。それにしても……もしやこの青年は殺人が起きているこの状況を楽しんでいるのか? と筑後川はかすかに寒気のようなものを覚えたが、咄嗟にそれを振るい払って話を続ける。


「その通りです。我々は孤立した空間に囚われてしまっている。しかも人を殺めた凶悪な人間と一緒に。……ええそうです。先ほどのレアさんの話を聞く限り犯人は内部の人間――つまり事件当時この家の中にいた人間の誰かである可能性が非常に高い。要はあなた方の中に犯人がいると思われるわけです。殺人犯と閉鎖空間に閉じ込められたこの状況。まさに推理小説のようじゃありませんか。そして奇しくもここに私という探偵がいる。これはきっとただの偶然ではないと思います。ですから、皆さんの身の安全を確保するためにも、私に協力させてくれないでしょうか」


 筑後川が言った『あなた方の中に犯人がいる』という言葉が、きっと薄々感じていたであろう尋常寺家の人々に改めて衝撃を与えたようだった。老人は聞いていない素振りを見せながらも顔の皺を一層濃くし、中年男性は苦虫を噛み潰したような顔になった。妻らしき婦人は元々白い肌をより蒼白く変色させ、娘らしき女性は眉根を寄せつつ忙しなく毛先を弄んだ。ただひとり、青年だけが微笑を崩さなかった。


「なるほどなるほど。いいじゃないですかお父さん。筑後川さんに事件の捜査をお願いしましょうよ」


「悠人、お前はまったく……」


 中年男性が半ば呆れたように眉をひそめたが、青年――悠人はどことなく愉悦じみた笑みを顔に貼り付けたまま父親に言った。


「だって彼の言う通り、当分のあいだ警察がここに来ないのは間違いないですよ。そして小森田を殺した犯人がおそらく僕たちの中にいることも、したがってその殺人犯と当分のあいだを一緒に過ごさなくてはいけないことも全部筑後川さんの言う通りなんです。果たして犯人がこれ以上の殺人を犯さない保証があるでしょうか。自分たちの命を守るためにも、ここは筑後川さんに一肌脱いでいただいて、シャーロック・ホームズやエラリー・クイーンのように華麗に犯人の正体を暴いてもらうべきじゃありませんか?」


「しかしどこの馬の骨とも知れん奴に……」


「いいじゃないですか。筑後川さんが事件の解決に成功すれば儲けもの。失敗しても役に立たなかっただけで本来辿るべき結末を辿るだけですよ。彼に調査をお願いすることで被る実質的な不利益はないわけです。だったら頼まない手はないですよ」


 なんだか若干失礼なことを言われた気がしないでもない筑後川だったが、とて尋常寺悠人の主張が結果的に自身に利することに変わりはないので、無礼はあえて聞き流すことにするのであった。

 どうやら息子は父親よりも弁が立つらしい。ついに中年男性は諦めたようにひとつ溜息をついた。


「……まあそうだな。言われてみればお前の言うことも理解できる。私とて人殺しと同じ屋根の下になどいたくはない。それにだ。私は家族に人殺しがいるだなんて思いたくはないんだ。仮に探偵が調査の結果、やはり外部犯の犯行だったと突き止めてくれれば、それこそ私にとっては嬉しいことだし、私としてはそれを願って調査を任せるとしよう」


 続けざまに彼は筑後川にしぶしぶであることを隠そうともしないほど渋い顔を向ける。


「ということで筑後川さん。ひとまずあなたが事件を調べることを許可しましょう」 

 男は老人を見た。

「よろしいでしょうか、父さん」


「……ふん、勝手にせい」


 丈言は不愉快げに小さく鼻を鳴らすばかりでそれ以上は何も言わなかった。


「ありがとうございます。お引き受けいたします」


 軽く頭を下げる筑後川。とにもかくにも、こうして筑後川は無事に殺人事件の捜査権を尋常寺家公認のもと授与されたのだった。


 よし、と筑後川は心の中で拳を握った。邸宅内に足を踏み入れた瞬間には空っぽだったはずの筑後川のやる気タンクは、いまや却って探偵的意欲に満たされつつあった。というのも、事件の捜査を行なうとなれば、彼女を助手に誘うことができると考えたからだ。


 筑後川は振り返り、彼の背後に佇む姉妹たちの方を見やった。


「私の助手をやってくれないか」


 聡明な彼女こそ自分の助手に相応しいと、筑後川は信じて疑わなかった。……しかし返答がない。やっぱり性急すぎたか。相手の気持ちを考えず突っ走ってしまうところが自身の欠点かも知れないと、筑後川はさっそく反省と後悔と羞恥の念を抱いた。


 幾許かの気まずい沈黙を経て、やがてレアが感情の読み取れない双眸で筑後川を見た。


「わたくしでよければ筑後川様の助手をお引き受けいたします」


 まさかレアからそんな言葉がもらえるとは思ってもおらず、筑後川は目を丸くしつつ彼女を見返す。


「レア、さん……本当に君が私の助手役をやってくれるのか?」


「どうぞレアとお呼びください」

 と淡泊に答えつつレアはちょこんとお辞儀をする。

「はい。お力になれるかは分かりませんが、それでもよろしいのでしたら」


 今度は筑後川が押し黙る。確かに自分は助手を求めた。そしてレアは応えてくれた。だがいざ彼女を前にした今、本当に頼んでしまってもいいのだろうか……。


 逡巡する筑後川であったけれど、しかしほかならぬレアが彼の助手役を務めることに前向きな姿勢を見せたのは事実なのだ。そう考えた筑後川は先ほどの反省と後悔と羞恥を忘却する決断をとり、ごしごしとジャケットで手のひらを拭ってから右手を差し出した。


「ありがとうレア。それじゃ君に私の助手役を頼めるだろうか」


「承知いたしました」


 色白で小さなレアの両手が、包み込むように筑後川の手をとった。瞳と同じように冷たい手だったが、しかし女性らしい柔らかい手の弾力に筑後川は思わず意識してしまう。年甲斐もなくというかだらしなく頬が紅潮するのを誤魔化すように左手で掻きながら、どうか彼女に気づかれないでくれと願いつつ気まずい微笑をたたえる筑後川であった。

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