リオとレア
夜方宵
第1話 リオとレア
探偵・
筑後川は浮気調査などよりも諸々のわけあって殺人事件の解決を専門とする、さながら推理小説に出てくる探偵じみた探偵だったが、加えて一丁前に助手を連れているところもまた、まさに推理小説中の名探偵然とした男だった。
しかも筑後川が近頃中年に差し掛かった人生下山中のくたびれた男であるのに対して、彼の助手は二十代もまだ折り返さないほどうら若く、そして西洋人形のごとく美しいブロンド髪の女性なのだった。
そんなわけで筑後川は助手のことを(別に男女の仲でもあるまいに)大変誇らしく思っていたし、なんならそういう関係になりたいとも思っていたし、ゆえに事件となれば彼女の前でいい格好をしたいがためだけに血眼になって捜査や推理に勤しむような、大変下心に満ちた俗な探偵だった。
しかし結局ふたりの関係に大した進展もないままに(そもそも永劫進展の見込みはなかったのだが)、筑後川の助手はある日忽然と姿を消してしまったのである。それはおそらく筑後川の胸に秘めたる願望を敏感に感じ取った彼女が身の危険を覚えたために失踪を図ったのだろうと、そう探偵自身薄々思い当たってはいたのだったが、しかし失恋の重荷を背負うにはあまりに未熟なまま歳を重ねすぎた現代の魔法使いは、己のちっぽけなプライドを守らんがために探偵にあるまじき論理放棄でそれを認めはしないのであった。
とはいっても、人ひとり分の温度を失った寒々しい事務所にいては流石に助手の喪失を肌で感じずにはいられなかった筑後川は、やがて逃げるように事務所を飛び出してはあてもなく見知らぬ遠方をぶらつく旅に出た。要するにやはり傷心旅行である。
そういった経緯があって今、筑後川は古びたレンタカーで未知の田舎道を走っていた。
田舎道というより山道で、森の中に辛うじてアスファルトを敷いたかのようなうねりの中を1000ccそこそこの弱小老いぼれエンジンが悲鳴のような音を立てながら進んでいく。
上ったり下ったりの繰り返しで、筑後川は自分が山頂を目指しているのか麓に向かっているのかも分かっていなかったが、どっちにしろいずれ出るところに出るだろうくらいの気持ちでアクセルを踏み続けた。
しかしそんな彼の無計画さが悲劇を招くことになる。
元々曇りがちの天気ではあったが、いつの間にか空は黒々とした暗澹たる影に覆われ、ついには慟哭を始めたのである。激しい雨が木々の隙間を縫って車体を叩き、立て続けに轟く雷鳴が闇を裂いては筑後川の視界を眩ませた。
最初は山の天気にありがちな驟雨かと思ったが、どうにも降り止む気配が微塵もない。しかもここにきて把握したがどうやら車は山を登っているらしい。流石にこんな豪雨のさなか山頂を目指すのは愚か者の所業にほかならない。傷心中で絶賛思考力低下中の筑後川でもそのくらいは理解できた。
とりあえず今から来た道を戻ろう。決断した筑後川がアクセルペダルに乗せた右脚から力を抜こうとしたときだった。
地鳴りのような震動が車体を揺らした。筑後川は咄嗟にブレーキを強く踏む。溝の浅くなったプアなエコタイヤがずりずりと滑りながら車体を減速させ、鉄の匣は数十メートルかかってようやく停止した。
もう地鳴りはしなかった。道路に対して斜めの格好で停車した車内から、筑後川は震動の元凶を探る。
ぐるりと周囲を見回して……筑後川は後方にそれの存在を、否、非存在を認めた。
たった今自身が通ったはずの道が、跡形もなく消失してしまっていたのである。見えるのはただ、無数の木々と泥の積層ばかりだった。豪雨のせいで緩んだ斜面が土砂崩れを起こし、道路が寸断されてしまったのだ。
「こりゃまずったな……」
今さら自身の無為な無能を顧みたとて崩落した斜面が元に戻るわけもない。それどころかいつまた次の土砂崩れが起きるかも知れない。とりあえずここにいては危険だと判断した筑後川は、再びアクセルに足を置いてオンボロ乗用車を走らせ始めた。土砂崩れに巻き込まれないためには山頂に出るべきだと考えたのだ。
降り続ける大雨の中、突如として横から森の津波が押し寄せないことを願いつつ筑後川は上を目指した。
幾度ハンドルを左右に切っただろうか、か細い山道を登り切った先、急に左右の木々が引き下がり、筑後川の視界にぐっと黒雲が広がった。終着点は展望台か何かだろうと踏んでいた筑後川の推測を裏切って、彼を待ち構えていたのは立派な巨門と、その先に広がったのは大きく切り拓かれた庭だった。
土や芝生に覆われた西洋風の庭の奥には、これまた中世欧州を思わせる大きな洋館がそびえていた。
黒雲の真下に鎮座する古めかしいその古城は、なんともいえない陰鬱な妖しさをたたえており、まるでホラー映画やサスペンス映画、いやむしろミステリ小説に出てくる連続殺人の舞台を思わせる佇まいであった。
「どうすっか……」
筑後川は迷った。どうやら自分が登ってきた山道の終着点は、見知らぬ私人の私有地だったらしい。このままこっそりと庭先に車を停めさせてもらって雨がやむまでやり過ごすべきだろうか。いやしかし、下山する唯一のルートが潰れてしまった今、雨が上がったとて帰ることもままならない。であるならば、ここは目の前の洋館の扉をノックして、正直に事情を話し、しばし邸内に留まらせてもらうのが得策ではないか。
「訪ねてみるか……」
結局筑後川は悩んだ挙句、鬱々とした洋館の扉をノックすることに決めた。
古いからなのか、それとも鳴り止まない雷に怯えてなのか、ぶるぶると震えるレンタカーを煉瓦造りのポーチの前に寄せる。
運転席のドアを開けようとして、筑後川は思いとどまった。外はまれに見る土砂降りなうえ、土の庭は泥濘が酷い。筑後川はセンターコンソールボックスを跨いで助手席側から外に降りた。おかげで年季の入ったよれよれのジャケットとパンツ、それに踵のすり減った革靴も雷雨の洗礼を無事に免れることとなった。
改めて玄関の前に立つと、年月を吸って色濃くなった褐色木材の重厚な扉が並々ならぬ威圧感を筑後川に与えた。一瞬怯んだ筑後川だったが、とはいっても残された選択肢はほかになく、溜息にも似た深呼吸をひとつ終えてから、彼は意を決して目の前の板に三度拳を叩きつけた。
「すみません」
くたびれた男の覇気のない声は苛烈な雨音に掻き消されたに違いなかったが、けれど不躾なノック音だけはしっかり家内に響いたようで、数十秒ののち、やがてがちゃりと解錠の音が響き、ゆっくりと異界への扉が暗黒たるその口を開いた。
闇の中から静かに人影が現れる。思わず筑後川は目を丸くした。
「こんな大雨のさなか、一体何のご用でしょうか」
「こんな豪雨のさなか、一体何のご用でしょうか」
幼げな容姿。漆黒の黒髪に烈火のごとき赤目。まるで瓜二つの見た目をした、おそらく双子と思しきメイド姿の少女が筑後川の眼前に立ち、人形のように無感情な瞳でじっと彼を見つめてきたのだ。
「君は……」
「わたくしはこの尋常寺家にお仕えするメイド、
「わたくしもこの尋常寺家にお仕えするメイド、廻目レアと申します。こちらはリオ。わたくしの姉です」
「リオ、レア……」
同じ音はないにもかかわらず響きが似ていて姉妹感のある名前。リオとレアでリオレアか、などと筑後川はそんなことを思ったが、彼の言葉にメイド双子姉妹、リオレアはただ興味なげな視線を返すばかりだった。
しばしの沈黙を経て、再びリオが口を開く。
「改めまして、あなたはどういった方で、またどういったご用件でいらっしゃったのでしょうか?」
「あ、ああ……」
と我に返りつつ筑後川は手のひらに滲んだ汗を無意識にジャケットで拭い取った。
「私の名前は筑後川といいます。山道に迷い込んだところ、この大雨のせいで道が土砂崩れで潰れてしまい帰れなくなってしまいまして……」
「土砂崩れですか」
レアの冷めた物言いに筑後川は疑われているのだと感じて必死に訴える。
「本当なんです。ですから自力では山を下りることができません。雨がやみ次第、救助隊がくるのを待つしかないでしょう」
筑後川は一瞬躊躇いつつも続けた。
「……なので、申し訳ありませんがしばらくお宅に置いてもらえないでしょうか」
そしてまた訪れる沈黙。
居たたまれない気持ちを抱きながら、筑後川は返答を待った。
「状況は理解しました」
やがてリオが平板な声音で言った。
「であれば、筑後川様を邸内にお招きしてよいか主人に確認してまいりますので、今しばらくお待ちください」
頭を下げたのち身を翻して邸宅の奥へと消えていくリオを見送りつつ、ひとまずホッと安堵する筑後川だったが、しかしそんな彼に妹のレアが変わらず冷えきった視線を送り続けていることに気がついた途端、筑後川は背中にぞわりと怖気のようなものを覚えた。
「あ、あの……」
と堪らず無策に口を開いた筑後川の言葉を、被せるようにしてレアが遮った。
「ですが筑後川様、あらかじめご了承いただかなければならないことがございます」
それは筑後川に、長年の経験からくるある種の予感を覚えさせた。できれば当たってほしくない予感。しかしそういうとき、決まって彼の予感はいつも外れはしないのだった。
「……なんでしょうか」
それでも杞憂であってくれと願いながら筑後川は問う。
そしてその願いはレアの言葉によって無残に砕かれた。
「今この邸宅内では、殺人事件が起こっております」
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