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「あー、実は」
部長が、ちらりと課長を見る。
「今年いっぱいで、五十嵐君がうちの会社を辞めることになった」
女子の間から悲鳴が上がる。私も、声を上げないように口元を押さえた。
そうだ。忘れてたけど、あの噂。本当だったんだ。
「辞めるといっても、まったく関係なくなるわけじゃない」
動揺する職員を前にして部長は続ける。
「ここでは言っていなかったが、五十嵐君はベガホールディングスの五十嵐社長のご子息だ。ベガグループを継ぐために、わが社で経験をつんでいたわけだな」
ベガホールディングス株式会社は、私の会社、紫水観光株式会社を子会社とするベガグループの持ち株会社、つまり本社だ。ベガグループは観光の他にも、交通や食品などの事業を抱えてそれぞれの子会社を持っている。
そういえば、本社の社長は五十嵐ってお名前だったわ。課長は、社長の息子さんだったのか。
課内が、さっきとは別の意味でざわめく。そんな偉い人のご子息となればびっくりよね。
と留美に言ったら、ばかね、とささやかれた。
「ベガの跡取りなんて、捕まえたら超玉の輿じゃん! 見なよ、女子たちの目の色が変わったわよ」
「あ、なるほど」
それでざわめいていたのか。
そんな雰囲気に気づいてか気づかずか、部長はのんびりと話を続ける。
「先ほど承認された新事業のため、来年から正式に本社に戻ることになった。ついては、五十嵐君の他にもそちらへ異動することになる者がいるので、該当者には改めて通知をする。五十嵐君」
呼ばれて、課長が一歩前に出た。
「突然のことで驚かれたでしょう。今度始めるプロジェクトの準備が思いのほか早く進んだので、来年度から始めるためにこちらを年内で退社し新規プロジェクトの準備を本社で始めることになりました。ここで鍛えられた力をいかして、私はこれからもベガグループのために働いていきたいと思います」
そこで、五十嵐課長と目があった。
「数名の方に出向をお願いすると思います。その時はぜひ、力を貸してください」
こっちを見て言われると、まるで私に言っているみたい。
部長がフロアをでていくと、課長のまわりには人だかりができた。
「課長、本当にやめちゃうんですか?」
「急なことですまない。引継ぎはしっかりしていくから、あとは頼むよ」
「課長がいなくなると寂しいです」
「ありがとう」
退社の話を知らなかった社員は、口々に課長に話しかけている。
事前に退社の話を耳にしていなかったら、私もこんなに冷静じゃいられなかったかもしれないな。
「課長、誰がこの課から一緒に行くんですかあ?」
高塚さんが、他の人を押しのけて課長に近づいた。大きい潤んだ目で課長を見上げて、とびっきり甘い声を出す。
「私、本社勤務夢だったんですぅ。新しいプロジェクトにも興味ありますぅ。力になれると思うので、一緒に連れて行ってくださあい」
周りにはしらけた雰囲気が流れた。
あの調子だと、課長の意見はともかく、また部長に頼みこんで一緒に異動ってことになるかもしれないわね。
のほほんと聞いていた私の耳に、予想外に厳しい課長の声が聞こえた。
「無能は必要ない」
しん、と場が静まる。私も思わず息を飲んだ。
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