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「あの、久遠、実は……」

「くおんさんていうんですかあ? 素敵なお名前ですね。よかったらこの後……」

「うるせえ」

 ふいに、久遠が低い声で言った。

「え?」

「うるせえって言ってんだ! どけよ」

 すりよってきた高塚さんを押しのける。乱暴ではなかったけれど、拒絶されることに慣れていないんだろう。びくり、と高塚さんが体をこわばらせるのがわかった。

 そのまま久遠は振り返らずにカフェから出ていく。

「待って、久遠!」

「誰だよ、五十嵐って」

 前を向いたまま足を止めずに久遠が言った。低い声。……怒っているの? 

「違うの、あれは……」

「彼氏はいないんじゃなかったのか? 嘘だったのかよ」

「嘘じゃないよ」

「どうだか。そいつの名前偽名に使うくらい好きなんだろ?」

 はっきり偽名と言われて、思わず息を飲む。

「名前を偽ってたことはごめんなさい。でも、五十嵐課長は、本当にそんなんじゃないの。私は……」

 立ち止まって顔だけ振り向いた久遠に、私も足を止めた。

 冷たい目。そんな目を、一度見たことある。

 初めて会った時、ナンパ男をにらんだあの目だ。

「騙してたのはどっちだよ」

「久遠……」

「帰る」

 一言言うと、久遠は私に背を向けてもう振り返らなかった。

 私は、追うこともできず、その背を見送った。


  ☆


 MV、返し損ねちゃったな。

 あれ以来、久遠からなんの連絡もない。

 名前の事、後ろめたい気持ちと嫌われる恐怖感で、訂正する機会を逃してしまっていた。

 久遠はどう思っただろう。騙されていたこと、すごい怒っていた。当然だよね。嘘つかれて傷つけられて、怒らないわけないもの。

 謝りたい。

 何度もスマホを取り出しては、手を止める。ブロックされてたら、謝る機会すら与えてもらえない。それを確かめてしまうのが怖くて、結局私からも何も連絡できなかった。

 仕事をしながら、一つため息をつく。

 今日はあれほど楽しみにしていたコンサートなのに。

 余裕持って会場に行くために半日休むつもりだったけど、明日大事な取締役会議があるから準備のために休めなかった。

 コンサート……ステージの上には、久遠がいるんだ。

 うん。今日が終わったら連絡してみよう。もしもまだつながっているなら、ちゃんと謝ろう。嫌われるのはしょうがないとしても、騙していたわけじゃないことだけはわかって欲しい。久遠を傷つけたまま終わるなんて……絶対、嫌だ。

 そう思いながら準備を終わらせ、明日の会議の最終チェックをしていた時だった。

「え……」

 私は、用意していた書類を見て絶句した。

「た、高塚さん」

「なんですかあ」

 あきらかに五十嵐課長に対する返事よりワントーン低い声で、高塚さんが答えた。手鏡を見ながら、前髪をきれいに整えることに一生懸命らしい。

 あの後、高塚さんが久遠のことを言い出すことはなかった。よほど、あの時の久遠が怖かったのかな。

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