019 失う

 ワタシには男のその日の疲れがたちどころにわかるようになっていた。今夜は少しばかり参っているようだ。ワタシが来たことに気付いた男は微笑んだ。


「……いらっしゃいませ。まだ片付けは済んでいないんですけど、一本吸わせてもらいますね」


 ワタシの近くに水を置くと、男は大きく息を吐いた。


「お節介だとはわかっているんですよ。けど、僕にとって家族はもう弟だけですから。いつか失うんじゃないか、と思うとこわいですね、正直」


 この男にしては珍しく、捉えどころのない話が始まった。普段はどんな客がどんな話をしたか、ということを喋ることが多いのだが。


「あなたは……亡くなった方ですよね。なんとなくわかってます」


 こうしてワタシのことに言及してくるのも滅多にないこと。ワタシはそのまま聞いているだけだ。


「なぜ、僕の店に毎晩いらしてくださるんですかね……いえ、僕は嬉しいんです。こうして考えをまとめることもできますし」


 ワタシはふより、と男に近寄ってみた。タバコの煙がかかる辺りまで。それが男もわかったのだろう、目を丸くした。出過ぎた真似かもしれないが……慰めてやりたくなったのだ。


「……お気を遣わせてしまったようですね」


 こんなにも、実体を持ちたいと思ったのはいつぶりだろうか。既にワタシが諦めてしまったもの。触れて、感じて、反応を見ること。


「あ……龍也からかな」


 男はレジの横に置いていたスマートフォンからケーブルを抜き取って操作した。


「……ふふっ。ラーメンと、ギョーザと、チャーハンまでつけてますね。脂質とか大丈夫かな」


 男はワタシに画面を見せてくれた。カウンターテーブルいっぱいに広がった料理の写真だった。ワタシは食事をとらなくなって長いから、それらがどんな味かという想像すらできなかった。


「さて、片付けますか」


 タバコを消した男はゴミをまとめ始めた。ワタシもいつもの場所に戻り、男の作業を見守っていた。

 実体を得ること。いくつかの方法は知っていた。しかし、それは他者を犠牲にする。ワタシにはそこまでの勇気はない。

 それに、実体を持ったワタシをこの男が受け入れてくれるかも疑問だ。ワタシが今のワタシだからこそ、この男はここまで気安く接してくれているのかもしれない。

 ワタシがワタシのままでいる方が、きっとお互いのためなのだろう。

 そう、男の言う通り。ワタシは人間としてはもう死んでいるのだから。


「じゃあ……閉めますよ。今晩もありがとうございました」


 ワタシは店を出た。明日もまた行く。この店が続く限り。

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