011 ピアニッシモ
またあの店に行ってみよう。私は定食屋で腹ごしらえをしてから向かった。
マスターは私を見ると爽やかに微笑みかけてくれた。
「いらっしゃいませ」
おしぼりの次に、タバコも出していないのに灰皿を置かれた。
「ん……私のことを覚えていたかい?」
「はい。身内以外では初めてのお客様でしたし……失礼ながら、男性では珍しい銘柄だというのが印象に残って」
ピアニッシモのことか。私はそれを取り出した。
「妻が吸っていたんだ。癌で先立たれた」
「それは……」
「ああ、気を悪くしたわけではないよ。ただの事実さ。じゃあ、ジン・トニックを頂こうか」
マスターの手つきはやはり滑らかだ。この男の名前を聞いておこう。
「私は
「川上です」
「川上くんね。あれから客の入りはどうだい?」
「そこそこですね。知り合いもたまに来てくれるので」
ここが賑やかになりすぎるのは考えものだが、潰れてはほしくない。ジン・トニックを味わいながら、私は思案した。
「……また今度、古い友人を連れてくるよ。そいつも酒にはうるさいが、川上くんの腕なら信用できるから」
「ありがとうございます」
私は川上くんの右の手の甲に絆創膏が貼られているのに気付き、口に出した。
「その怪我、どうしたんだい?」
「ああ……猫にひっかかれまして。黒猫を飼っているんですよ」
「川上くんは独身?」
「はい」
「独身男が猫を飼うと婚期が遠のくぞ」
「よく言われます」
まあ、今時の若者は結婚にさほど興味がないとは聞くが。夜の仕事をしていれば尚更だろう。私は続けた。
「私と妻の間には、結局子供ができなくてね。二人とも望んではいたんだが。子供が欲しいならよく考えた方がいいよ」
「子供ですか……僕にとっては遠い世界の話ですね」
「この店が恋人かい?」
「そのようなものです」
次は違うものにしようか。私は川上くんの後ろにあるボトルを眺めた。
「ふむ……ヒンチがあるのか」
「ええ。これにされます?」
「ロックで」
アイリッシュウイスキーで、あまり置いている店は見たことがない。昔一度だけ飲んだことがあった。
「どうぞ」
「ん……」
私はグラスを傾け、ゆっくりと楽しみながら、ちょっとした愚痴を吐き出した。仕事の話だ。
二杯で店を出た。酒は好きだがそんなに強くはないことを自分でよくわかっていた。深く礼をする川上くんに手を振り、久しぶりにあいつに連絡をしようと思い文面を考えた。
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