008 自慢
妻には悪いが、ちょっとした息抜きは必要だ。彼女もショットバーが好きな人だから、僕の「外で飲みたい」という気持ちはわかってくれて、今度は交代することを条件に送り出してくれた。
引っ越してきてから間も無いので、この辺りのことはよく知らなかった。いくつか店の前を通ってみたのだが、どこもピンとこずに、どんどん薄暗いところまで来てしまった。
「ここにしてみようか……」
木製の扉を開けると、メガネをかけた男性マスターが微笑みかけてくれた。
「いらっしゃいませ」
他に客はいなかった。ずらりと並ぶボトルの中に、僕のお気に入りがあることを確認して言った。
「グレンモーレンジィ、ロックで」
「かしこまりました」
このウイスキーには妻との思い出があった。ラベルは当時と変わってしまったようだが、それでも懐かしいことには変わりない。
「ショットバーに来るの、久しぶりなんですよ」
僕はそう語りかけた。
「子供が小さくて。二人居るんですけどね。下の子はまだ授乳中です」
「大変ですね。僕は独身なので、想像もできませんが」
「いやぁ……なめてました。夜泣きがあんなにキツいとは思わなかったですよ」
マスターはウイスキーグラスを差し出してくれた。うん、この深い香り。やっぱり僕はこれが好きだ。
ちびちび飲みながら、僕は続けた。
「上の子は女の子なんですけどね。妻に似てきまして。けっこう厳しいこと言ってくるんですよ。帰る時間が遅れると、約束破ったって怒って」
「ふふっ、微笑ましいです」
下の子も女の子なので、僕はあの家では女三人に囲まれていることになる。次の子供は望んでいない。姉妹が成長すると、僕も立場が危うくなるかもしれない。自分で言うのも情けないが……恐妻家である自覚はあった。
「ここ、いい店ですね。妻にも教えておきます」
「ありがとうございます。お二人で来るのは……まだ難しそうですね」
「ええ。できたらそうしたいんですけどね」
結婚前の妻を思い出した。彼女は当時はタバコを吸っていて、僕と付き合うとなった時にやめたのだ。結果的にそれでよかったよ、と母親になった今ではそう言っていた。
「そうだ、この前上の子がね……」
僕もすっかり父親ヅラをするようになってしまった。独身のマスターには退屈な話だったかもしれないが、全くそんな素振りも見せずに相槌を打ってくれたので、ついつい長居してしまった。
帰宅して、妻に遅いと叱られたのは言うまでもない。
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