006 マルボロ

 ワタシがいかにして今の状態になってしまったのか、こうなってから幾つの夜を越えたのか、もう定かではない。

 ゆっくりだが夜間なら移動はできたので、人間たちの営みを見て回るのが唯一の慰めになっていた。

 今夜はここを止まり木にしようか。そう決めて一軒のバーに入った。一人の男が伝票を整理していた。


「ん……?」


 男はワタシの方を向いた。ワタシは驚いた。今までになかったことだったから。


「えっと……変わったお客様ですかね。変わった、っていうのは失礼でしたか。とにかくまあ、おくつろぎ下さい。見ての通り、あなただけですし」


 間違いない。男はワタシのことを「感じて」いた。ワタシは声など出せないから、男のセリフに返答もできず、椅子の辺りに漂うだけだ。


「お水にしておきましょうか。置いておきますね」


 男は水の入ったグラスをカウンターの上に置いた。ワタシは男の顔を見つめた。なるほど、西洋の血が入っているのだろう。それならば納得がいった。


「今夜はそこそこお客様がいらしてくれましてね……助かりました」


 それから男は、つらつらとその日の出来事を語りだした。ネットでこの店を宣伝してくれる女性が現れたこと。生活もあるから、多少はそういう営業活動に力を入れねばならないと考え始めたこと。

 男はまるで緊張していなかった。ワタシのような存在と会ったことがあるのだろう。まあ、ワタシは、他の存在と出くわしたことはないのだが。


「もうすぐ閉店しますね……タバコ一本頂きます」


 男の銘柄はマルボロだった。懐かしい。ワタシもこれが好きだった。


「ふぅ……お客様が少ないとはいえ、自分がマスターになって回すのはプレッシャーがありますね。アルバイトの時と大違いですよ」


 おそらく客には見せない顔なのだろう。男は頬を緩めて眉を下げ、薄く笑った。

 ワタシは数多くの人間たちの話を盗み聞きしてそれを糧にしていたが、こうしてワタシが相手になって話されるというのもいいものだ。


「あっ……済みません。初めてお会いした方に弱音吐いたりなんかして」


 気にするな。そう伝えたいのだが、もどかしい。


「僕……頑張りますね。またいらしてください。もちろんお代なんて要りませんし」


 夜明けはまだだが、店を出ることにした。ワタシがワタシとして認識された。ワタシにもまだ、そうした欲求は残っていたらしい。ワタシは嬉しかった。

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