第9話

「そろそろ、水葬いたしましょう」


 午後の光が射しこんできたころ、貴志が数人の男を連れてやって来た。


 以前にも顔を見たことがある者達で、どうやら彼らは貴志の直属の部下らしかった。


 傷口から強烈な腐臭が漂っていたのだろう、中の一人がこらえきれずに走って出ていく。開け放たれた戸からは青い海が覗き、嘔吐する青年のえづきが聞こえて来た。


「嫌だ。お母さんを一人でこんな冷たい海の中に放り出せるものか」


 真一は貴志を睨みつける。


「魂の抜けた肉体は最終的に――」


 青年は一瞬躊躇したが真一を見つめながら、最後の一言を発する。


「腐ります」


「腐っても一緒にいるんだ。お母さんと僕は絶対に離れない」


「もしかすると、お母様には時限爆弾が埋め込まれている可能性があります」


「そんなわけない。でたらめを言うな」


「文字通りの爆弾ではありません。肉体が腐って崩れてくると繁殖する致死性毒素を産生する細菌が埋め込まれているかもしれません」


 青年はちらりと真一の母の遺骸に目を向けた。


「腐敗が早い気がします。右目をえぐられた時に、奥に嫌気性菌が埋め込まれたかもしれません。昔は体力低下した個体や傷口のみに感染を起こしていたのですが、奴らの改良で菌量が多いと健康な人間に対しても致死性の感染を起こす菌に変化しています。抗生物質が効きにくいのも始末が悪い」


 公安の奴らは傷口にその菌を埋め込んだエターナルをわざと放逸する。隠れ里に逃げ戻ったエターナルの傷口が膿んでくると菌が増加して、まず看病したものが感染。ついには全村に広がってしまって滅びたエターナルの村は一つや二つではない。


 その昔、細菌兵器が「貧者の核」と呼ばれたことがあった。安価で大量の虐殺も可能な細菌兵器は、使った側にも影響が及ぶ危険があり一時下火になっていたが、あの血みどろの大戦から再びエターナルに使用する限りにおいては是とされるようになっていた。


「もう限界です。お母様をこのままにしておくと、あなた方はおろか、私どもにも被害が」


「望むところだ」


 少年は吐き捨てるように言うと、母の身体の横に寝そべり抱きかかえた。


「捨てるのならば一緒に捨てろ。きっと僕も感染しているぞ」


 息子が声限りに叫び抵抗している横で、真一の父親は呆けたように部屋の隅に座ったまま、合わない視線を虚空にさまよわせているだけであった。口のはたには息子が昨夜無理やり飲ませた粥の汁がこびりついていた。


「止めてください、真一」


 汚れたゴムの手袋をはめたエターナルの青年が、母親の身体を押さえ、数人の青年が真一をぐいと引きはがそうとする。


「まだお母様の遺体は、菌が増殖するほどの状態ではない。今のうちなら」


「触るなっ」


 しかし、真一はあまりにも幼く、非力であった。抵抗空しく、遺骸からむしりとられるように引きはがされると、母親は藁で編んだ菰で包まれ彼の目の前で船端から海に投げ入れられた。


 音は不思議なほどしなかった。


 水葬と言うより、廃棄。エターナルたちが頭を下げる様子も真一には白々しく思える。


 追って海に飛び込もうともがくも、押さえつけられた真一の身体はピクリとも動かない。


 彼の獣のような叫びだけが海風に流れて行った。








 真一にはそれからの記憶が無い。


 日本では秋風が吹いていたというのに、船の中は日ごと蒸し暑さが増して来ている。南に向かっているのだろうか。


 時間をかけてゆっくりと、まるで沼の中から浮上してくるように、ぼんやりとかすんでいた真一の目の中の情景は、徐々に形を取りはじめた。


 母のいなくなった空間はいつの間にかエターナル達が清掃をして、室内に充満していた腐臭も消え去った。


 しかし、床や壁に残った消しきれない血の痕が真一の記憶を呼び覚ます。そして吐き気を催すほどの自己嫌悪を誘発した。


 母の後を追って死にたい。と何度思ったことだろう。


 だが、そのたびに父の言葉が、まるで棘の生えた剣のように彼の心を貫いた。


――自分だけ逃げるつもりか。


 目の前の父の姿を見る。頑固だったが、頭が良くて家庭を大切にしてくれた父。


 その父はだらしなく壁にもたれて、排せつと食事以外はぼんやりと壁を眺めているだけだ。貴志に首を絞められて酸欠状態になったこともあろうが、真一には最愛の母をあのような酷い失い方をした衝撃に心を砕かれてしまったのだろうと思えてならない。


「高村君」あのか細い優しい声に抗えなかったため、両親をこんな目にあわせてしまった。


 何を憎めばいいのか。


 何の罪も無い自分達を巻き込んだエターナルか。エターナルが危険だからと言って、家族まで巻き添えにした公安か。でも、エターナルは人類の敵で、公安はそれに対して日夜戦っている味方のはずだ。


 彼の小さな頭では、わからないことが多すぎて、真一は血が出るほど唇を噛みしめる。


 だから。


 逃げない、僕は逃げない。


 このまま死んだら、誰がお母さんの仇をとるんだ。


 まずは、この世の中の事をいろいろ知らなければならない。


 そして、憎むべき真のかたきが見つかれば、自分の命をかけて滅ぼしてやる。


 それまでは、死ねない。


 彼は、父の方を向いた。


「ごめんね、お父さん」


 僕のせいで、取り返しのつかないことになった。


 僕は一生をかけて、償いをするから。


 大人になって、もっと力を蓄えたら、必ず。


「だから、許して――」


 父は絞り出すような真一の言葉にも反応せず、うつろな目で壁を見つめるばかりだった。


 もう、子供ではいられない。真一は薄暗い部屋の中で目を見開く。


 母とともに彼の子供時代は海の中に葬られていた。






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