第5話

「たかむらくん」


 まるで校舎に差し込む夕日のようなオレンジ色が目の前に浮かび上がる。


 何処からか、心を包み込むようなほんのりと甘い声が聞こえた気がして、真一は声にならない声をあげた。


 闇の中に現れた光に導かれるように、彼の意識は急速に夢の中から浮かび上がる。


 夢の残像は、誰も居ない教室。


 中身は思い出せないが、胃のあたりの鈍い痛みと目に残る涙が楽しいものではなかったことを告げていた。


 ここは……。


 眼を開けると、真一の視界に揺れる光の輪が飛び込んで来た。


 ランプだ。天井に見慣れない小さなランプが下がっている。


 それは薄闇の中で規則的に円弧を描き、この場所自体が揺れていることを教えていた。


 敷かれたむしろを通して背中に固い床の感触が伝わって来る。


 聞こえてくるのは規則的な水音と、ふいごを吹く様なかすかな――風音?


 どうやらここは水の上らしい、自分は船に乗っているのか。


 その途端、酷い頭痛とともに母の悲惨な姿が鮮明に蘇り、彼は跳ね起きた。


 これは夢だ。


 悪い夢だ――。


 頼む。誰か、夢の続きだと言ってくれ。


 急速に意識の中になだれ込む現実に、呆然とする真一。


「起きたのか」


 部屋の隅の陰に溶け込むようにして坐っている塊が低い声を発した。


「お父さん、お、お母さんは」


 殴られて血を吐く父。そして目の前に落ちた、母の眼球。


 あまりにも残忍なそのやり口に、公安の男に殴りかかった。までは覚えているがそのあとの記憶が無い。真一は唇を噛み締めた。


「お母さんは――」


 父親は頭を垂れたまま無言だ。


 そのかすかな顔の動きの先、部屋の片隅にランプの陰影が細長い影を作っていた。


 そこには皺だらけのぼろ布に包まれた小柄な体が横たわっていた。


 顔の上にも粗末な布切れがかけてあり、鼻を刺す血の臭いが漂っている。布の下から、あのふいごのような音が漏れていた。


 ぜい、ぜい。静かだが、苦しげな母の息。


 真一は全身を震わせながら這うようにして母に近寄った。


 ごくわずかな隙間から射しこむ光以外には小さなランプだけで、細かい部分が見えなかったのは、彼にとってせめてもの救いだったかもしれない。


 だが、布や寝かされている床に固まった血が広がっているのが薄い光の元でも見て取れた。


 肘から逆の方向を向いている右手。暴行は真一が意識を失ったあとも続けられたのが明白だった。


「お、お――」


 声が出ない。


「止めておけ」


 血に染まった布を取って顔を見ようとした真一を低い声が制した。


「見てやるな」


 その布の下がどんなことになっているのか、想像するだけで真一の全身が切り苛まれる。


「少し前までお前の名前を呼んでいたが、もう、何も言わなくなった」


 父は俯いて、息子のほうを見ようともしない。


 真一はそっと母親の手を握った。


 ガリガリとした血がこびりついた冷たい手。


 痛かったろうに、苦しかったろうに。


 自分が、荒木をかくまわなければ、こんなことにはならなかった。


 最愛の人を地獄に追いやった衝撃が脳に突き刺さり、彼の心を硬直させる。


 彼は無言でただ、ぶるぶると震え続けた。


 部屋の片隅から、押し殺したような低い嗚咽が聞こえてくる。


 ぜい……ぜい……。


 どれくらい時間がたったろうか。だんだん呼吸の間隔が広がっていく。窓から射しこむかすかな光が暗い赤味を帯び始めた頃、呼吸音は忍び寄る闇に吸い込まれるように止んだ。


 これが夢であったなら、いや、これは夢に違いない。頼む、醒めてくれ。


 自分を責める気持ちをどうすることもできず、ガンガンと真一は壁に頭をぶつける。


 割れた額から生温かい物が流れてくる。


 しかし、痛みは感じない。


 神様。


 もし、居るのなら、自分の命の代わりに母を蘇らせて――。


 頼む、悪いのは自分なんだ。


 心の中で彼は叫び続けた。


「やめろ」


 父親の声が響くが、真一は頭を打ちつけるのを止めようとしない。


「自分だけ逃げるつもりか」


 搾り出すような父親の声。


 ふと顔を上げると、一条の血のような光に照らされた父親が真一の方をじっと見つめていた。


 黒い眼は、ただ深く、深く、心を刺すような光を発していた。


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