第3話

 何かを約束した、のではない。


 少なくとも言葉では……。


 絡まった指先から伝わってくるひんやりとした感覚が、まるで電気のように真一の身体を痺れされた。


 知らず知らずのうちに彼の小指に力が入る。


 守りたい……いや、僕が守る。


 母親の心配そうな顔が一瞬頭をよぎったが、真一の理性などお構いなしに、彼の想いは指先を伝わって彼女の方に流れて行った。







「はい、開けるわよ」


 母親が芝居がかった仕草で鍋の蓋を取る。肉じゃがの良い匂いを連れて白い煙が立ち上った。食卓の向こうで、いつもは厳格な父親が目を細くして微笑んでいる。


「結婚して初めての献立も肉じゃがだった。最高にうまかったなあ。あんな幸せはなかった」


 ちらりと妻の方を見て、慌てて目をそらす。父親は今でも母親の顔をじっと見ることができない。


 父親は両親を早くなくして苦労したらしい。おじさんの話では、母親に一目惚れした父親は、その外見と性格に似合わぬ涙ぐましい努力を重ねたらしい。


「お前の父ちゃんはな、瑞恵さんが好きで好きで。あの硬派の気むずかし屋が、彼女が好きな花を摘むために、連日山に出かけていったのさ」


 毎日家の前に置かれた花束が功を奏して、最初は強面の父親を避けていた母親をなんとか振り向かせたらしい。


「今日はこんなに肉が入って、豪華だな」


「そりゃそうよ。花嫁衣装を食べているんだから。さ、真一も沢山食べて元気出しなさい」


 母が大切にしていた裾にフリルのついた花嫁衣装。真一は虫干しのため藤の蔓で編んだ籠から母が出しているのを見たことがある。母親の両親と真一の父親がお金を出して買ったものらしい。


 金の花と銀の星がちりばめられた綺麗な花嫁衣装だった。結婚式であれを着た母親はどんだけきれいだったろう。狼狽する父親の姿が目に浮かぶようだ。


「売ったのか」


 父親がちょっと悲しそうな顔で母親を見る。


「もう、似合わないわよ」


「似合うさ。また、いつか買ってやる。お前のためなら、いくらだって働ける」


 父親が母親から視線を逸らすように椀を見たまま、つぶやいた。


「ぼ、僕もしっかり働いて……」


「けっこうよ。真一は、自分のお嫁さんのを買いなさい」


 息をのんで固まる真一を見て、母親は朗らかな笑い声を上げた。

 まさか、息子の頭の中がエターナルの少女の事でいっぱいになっているとは、思いもよらずに。

 






 その夜、親たちが寝静まったのを確かめると真一は音を立てないように台所に忍んでいき、くみ置きの水が入っている桶の蓋を開けた。そして音がしないように、ひしゃくですくい取ると、そっと竹筒の内側を沿わして水を入れていく。


 外に出ると、屋内とは違う身を切る寒さが真一を襲った。ぶるりと一度身を震わすと、そのまま竹筒を持って真一は納屋に走った。


 全身は凍えているが、怖さと冒険の高揚で彼の足は別人のように大きく歩幅を開いて飛ぶように小屋に向かっていった。


「高村真一君」


 朝出会った公安の冷たい声が何度も頭の中で繰り返す。闇の中から不意に後ろから捕まえられる感覚にさいなまれ、真一は納屋に着くと身を縮めてうずくまった。


 細い月のわずかな光を頼りに、腐りかけた戸をあけて納屋の中にもぐりこむ。


「荒木さん」


 小声で呼ぶが返事が無い。


 寝ているのか。緊張の連続だったに違いない、無理も無いことだ。


「水を持ってきた、ここに竹筒を置いておくよ」


 蓋のそばに竹筒を置いて真一が納屋から出ようとしたとき、足元からかすかな声がした。


「高村君――、私の仲間が近くに居るの」


 真一は貯蔵庫の蓋の隙間に顔を寄せて、思いを寄せる少女に問いかけた。


「仲間? エターナル?」


 言葉に出してから、真一は自分の無神経なもの言いをしまったと後悔した。


「ごめん、ごめんよ、荒木さん」


 蓋の下の小部屋にうずくまって数日を過ごした彼女は今どんな状態なのだろう。


 静かな闇の中に押し殺した嗚咽が響く。


 天使のように優しく、可愛らしい少女が今直面している悲惨な状況は想像するだに気の毒で、真一も暗闇の中で涙ぐんだ。


 暫くの沈黙の後で、真一はようやく口を開いた。


「僕に――」


 言いかけて、真一は言葉を飲み込む。


 これ以上かかわってはいけない。話題を出しただけでも血相を変えた母の顔が脳裏をかすめた。


 母親の大切な花嫁衣装が姿を変えた肉じゃがの味が舌に蘇った。

 真一の心の中でもう一人の真一が叫ぶ。


 こんなことしている場合じゃない。自分を愛している人の意志に背くなんて。お父さんやお母さんにすぐこの事を言わなければ……。

 お前は大切な親を裏切るのか。


 だが、荒木はいつもいじめられる自分を助けてくれた。


 その彼女が今、地獄のような場所で助けを求めている。


 お前は彼女を見捨てるのか。助けられるのは自分だけなのに。


 真一は、葛藤を押さえ込むようにぐっと両のこぶしを握り締めた。


 固く結ばれていた唇が、ゆっくりと開かれる。


「僕にできることがあれば、なんでも言って。荒木さん」


 息を飲むような声の後、途切れ途切れにか細い声が蓋の下から響いてきた。


「私がここにいることを、伝えて欲しいの」


「誰に、どうやって」


「仲間に――、学校に行く途中、奥まったところに土壁のある家があるわ」


「ああ、わかる、消し炭で落書きして怒られたことがある」


「あれが今回の私達の伝言板なの。仲間達は、きっと私を探している。だから、あそこにこの納屋の場所を書いて――」


「でも、公安達も見るかもしれない」


「大丈夫、きっと空が白むと同時に仲間がそれを見てここに来る。見た後は仲間たちがそれを消すわ」


「荒木さん」


 暗闇のなか、真一はひざまずくような格好で蓋に口を寄せて呟いた。


「僕、僕は、荒木さんの事を――」


 コトリ。


 納屋の外で、何か音がした。


「だ、誰か来たの?」


 少女の声が恐怖に震えていた。


「見てくる。大丈夫、風だよ。で、何もなければそのまま炭で伝言を書いてくる」


「お願い、気をつけて」


 真一が戸を少し開けた時、心なしか東の空の闇が薄くなっていた。


 誰もいないことを確かめて、納屋の中にある炭のかけらをつかむと真一は闇の中を走った。


 土塀にたどり着くと、真一は手探りで柿の実の絵を描き始めた。


 真一の家の納屋が建っているところの横に柿の木がある。


 秋になると甘い実を沢山つける、ここらへんでは有名な一本だ。


 みかんと区別が付かないような絵だが、その横に納屋のような形を描いた。


 納屋の前のたまねぎ畑を横切るようにして走る小川の絵も描いた。


 途中、なんども、エターナル達が出てきて取り囲まれる妄想や、公安に連行される想像をして真一は身震いした。


 書き終わると、後ろを振り向かずに一目散に家に向かう。


 山の端がかすかに白い。どこからか、気の早い一番鳥の声が響いてきた。


 そっと家の戸を開けて、布団にもぐりこむ。


 学校があるから眠らなくてはいけないと思うのだが、興奮した真一はなかなか寝付けない。


 荒木を探すエターナル達。


 際限なく増殖をし、資源を食い尽くす、この世から撲滅せねばならない者達。


 彼らは、真一の頭の中ではいつか図書館の本で見たかぶりものをした怪人の姿で浮かび上がっていた。本によってエターナル達の表現は違い、全身かさぶたの妖怪のようであったり、雲を突く大男であったり、どろりとした粘土のような生き物であったり、様々な怪物として描かれることもあった。


 真一の頭の中に、被り物をして黒っぽい服に身を包んだ異形の一団の前に、金色の薄い光をまとい天使の羽根を背中に生やした荒木が立っている、そんな絵が浮かんだ。


 そして、彼らと対峙するかのようにカーキ色の服に身を包んだ公安達が手に銃を持って少女に狙いをつける。


「やめてくれ」


 いつの間にかうたたねしていたのか、全身びっしょり汗をかいて真一は起き上がった。


 外はだいぶ白んでいるようだが、まだ朝にはほど遠い。


 そのとき。


「きゃああああああっ」


 納屋の方向から、少女の叫びが聞こえた。


 直後に銃声が響きわたった。


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