第22話

 外はかなり寒くなっているから頭を冷ますにはちょうど良いだろう。テキストを使えなくされ、お金を無駄にされたことは腹立たしいが、また買えば済む。こんな田舎に子どもをさらうような知恵の回る不審者もいないだろう。

ある程度夕ご飯の支度が終わり、後は皿によそうだけだったので、明日の授業準備で予習をしていた。ドアの開く音がして玄関を覗くと、夫と俯き加減の直人がいた。

「駅の改札前のベンチで座っててん。なんでこんな時間にこんなとこいんねんって聞いても黙ったままやねんけど、なんかあったんか?」

 喧嘩でもしたんか、と旦那は聞いてきた。いつものことやとだけ返事し、包丁を取り出して私に突きつけてきたことは言わなかった。直人に貸しを作って勉強せざるを得ない状況にすればまた従うだろう。最も正直に話したとして、夫に解決できるような力はない。直人は私を避けるようにリビングの部屋に入り、押し入れから布団を取り出してかぶって寝た。


 トースターの音が余韻を残しながらリビングに響き渡った。それを合図のように食パンの焼けた匂いが鼻に入ってくる。朝の匂いだった。もし直人に刺されていたらこの朝を迎えられていないかもしれない。

 直人が俯きながら出てきた。おはようと声をかけても返してこない。ただ、客観的に見て昨夜の出来事はかなりの大事だったので、そう考えると、俯きながらも殺そうとした母親の前に姿を現すのは面の皮が厚いのかもしれない。

 念のため、包丁は真っ先に洗って、表面の水滴をそのままに棚に戻した。直人が私に包丁を突き付けてきた行為を思い出すとまだ鼓動が激しくなる。なぜ直人のために一生懸命尽くしている私が刃を突きつけられなければいけないのか。私が直人に何をした? と言えば世間的に忌避されている行いだが、例えば爪で引っかいたり目に入って失明したりしないように毎日切って磨いている。虐待が発覚するのを恐れているわけではなく、直人に傷が残らないように、その場の痛みだけで完結するように細心の注意を払っていた。これは直人に共有すべきだったのか。直人はこの私の気遣いに気づかずただ暴力を振るわれていると思ったのだろう。

「直人、私はただ直人を好きで叩いてるわけちゃうんねん」

 直人は俯いたままそういう機械のように一定の間隔で噛んでいる。どうせ返事は帰ってこないだろうと思い、私はそのまま続けた。

「直人は潜在能力があるけど、まだまだそれを出せてない状況やから引き出させてあげたいねん。そしたら偏差値も上がるし、行きたい中学、高校、大学、会社に行けるようになる。いいやろ? でもそれはなかなか自力で頑張るの難しいやんか。だから私が普段厳しくしてんねん。痛いやろうけど、直人がケガせんように、爪のケアとかささくれとか毎日してるから理解してほしいねん。わかった?」

 直人は半分ほど食べた食パンを皿に置いて立ち上がった。反抗期とは実に面倒くさいものだ。これだけ私が譲歩して優しく喋りかけているのに、その気遣いに気づかず憮然とした表情を浮かべている。まあ親のありがたみがわかるのはまだまだ時間はかかるか。と言っても私は両親に対して感謝よりわざわざド田舎に引っ越した頭の悪さを恨んでいるわけだが。感謝も大それたものではなく、平均的に私に食べ物と子育て資金を出してくれたことに対する感謝くらいだ。はっきりいって両親は私の教育や育て方全般は失敗したと思う。いや、私が自主的に勉強しなければ、今頃山のふもとで土まみれになって農作物を育てているのだろう。そう思えば自主的に行動できる性格で良かったと思う。ある意味両親が定められた運命を特に考えもせず受け入れて農業してくれていたから反面教師になったのかもしれない。そう考えると私が直人に対して厳しく接しているのは優しさの塊だ。普通ならその年で気づけないことを私が繰り返し、手を変え品を変え直人に伝えているのだ。私の両親と違って。

 直人と入れ替わるように夫が目をこすりながら出てきた。目糞が落ちるから止めてほしい。夫は私と目を合わさず、食パンに向かって「ありがとう」とつぶやいてかみついた。食パンが自らトースターに入り、食べられるように準備したわけではない。ちゃんと準備した人に向かって言うべきではないか。夫がこうだから直人もおかしくなるのだ。

 直人や夫が出て行ったあとに私も支度して家を出た。タンタンタンと音が鳴る階段にはいい加減に嫌気が差した。

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