第16話

 木本豪の母親は夏休みに起こったすべての出来事を話ししていきそうな予感がした。このままでは映画二、三本分の拘束時間があると予測した私は、母が右手に携えた水色の封筒を尋ねた。

「模試の結果が返ってきたんですけど、偏差値とかアルファベットととかよくわからんもんばっかりやから先生にみてもらいたいなと思って」

 木本豪の母親は水色のファイルから資料をすべて抜き取ってテーブルの上に広げた。木本豪の母親に許可を得て、手元に手繰り寄せた。小さめに印字された文字列の意味を理解できたとき、心臓が縮んだのか膨張したのかよくわからないが、胸に痛みが生じた。国語の偏差値:五十、算数:四十九、社会:五十一、理科:五十九。四教科総合:五十二。理科は木本豪の得意な生物の分野が出題されたおかげで偏差値が異様に高い。それ以外は特に目立つ教科はないものの全体的に安定して取ることができている。直人とそんなに変わらない成績だった。夏休み一ヶ月勉強しただけで直人は並ばれてしまったのか。カンニングでもしたのかもしれない。取り柄もない、地元の工業高校に進学して「金ない」と日常的にほざきながら無駄な人生の時間を消費していく木本豪が急に成績が上がるわけがない。

「先生、これってね、勉強頑張っても意味あるんでしょうか」

「はい?」

「豪は東大に行くために頑張ってるんですけど、テストの点数もめちゃくちゃ良いってわけではなかったですし、その模試も私には良い悪いはわからんので、このまま頑張らせていいもんかって思ってるんです。かなうはずもない夢やったら、別に勉強せんでも今まで通り好きな虫と触れ合う時間を過ごしてほしいなと思って」

 どうしてこの成績を理解できない母親からこんな素養を持つ子供が生まれたんだろうか。いや、たまたま良い成績を取っただけなのかもしれない。何とか事実を回避しようと別の考えを模索するが、十八年の教師経験と勉強を頑張ってきた自分が否定してくる。勉強に偶然はない。努力した結果が伴わないことはあるが、努力していないのに良い成績が取れることは決してない。私自身にもこれまで担任を持ったすべての生徒に当てはまることだ。やっぱり木本豪は素養があったということなのだ。

「本人が嫌がってへんねやったらいいんちゃいますか?」

 すみませんそろそろ閉校の時間なので、と私は立ち上がって木本豪の母親に帰るように暗にメッセージを発信した。やはり木本豪の母親はそれを「早く帰れ」という意図を汲むことができず、玄関の横にある藻が繁殖して緑がかっているわりには何の生き物もいない水槽を見て「何かいたんですか?」と新たな話題を振ってくる。さあ、と言い、木本豪の母親に深々とお辞儀をして雑談することを拒否した。

 たった一ヶ月勉強しただけの虫好きに、直人が並ばれた。職員室に戻るまでの廊下が遠々しかった。合わせ鏡のように奥が見えずいつまでもたどり着かない。事実だけが反芻している。木本豪にあって直人にないものは何なのか。生まれたときから持つものなのだろうか。直人に素養が足りていなければもっと鍛えなければならない。私はやっとたどり着いた職員室に大股で入り、急いで鞄に荷物を詰めて後にした。

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