第15話

 算数のテキストを一ページめくると、小六が一年間学習する内容が見開きにずらりと並べられている。二学期以降は円の面積、比例・反比例、円柱・角柱の体積など過去の学年で学習した内容の基礎が理解できていなければ、たちまち授業についていけなくなる単元ばかりだった。

 算数は少人数制で私のクラスは成績下位層の猿が集まる方だった。よって小五以下の内容が理解できていない前提で授業準備をする必要がある。何かにつけてキーキー騒ぐジャス子は残念ながら私のクラスだった。成績下位層の集まる少人数クラスは問題行動を濃縮させたような集まりだ。授業をまともに聞かない猿、立ち歩く猿、求めてもいないのに彼らを注意するジャス子といったカオスになる。算数より人間的振舞いから学ばせた方が良いだろう。幸い、私が怒鳴れば大人しくなるからまだましだった。

 一方、成績下位層クラスの固定メンバーだった木本豪は、この二学期に受けたテストは今のところすべて百点ばかりだったので、必然的にクラスが上に上がって、周りから「すげえ」と言われていた。木本豪に点数が取れるようになったわけを聞いてみてもにこやかにはにかんで喋ろうとしない。いや、説明する能力はまだ無いのだ。

「安中先生、木本豪くんのお母さんがお見えになってるらしいですよ。安中先生とお話ししたいことがあるっておっしゃってます」

 二年目の笹原が報告してきた。去年は一年中スーツで身を包んでいたのに、今は薄手のカーディガンにブラウスといったカジュアルな服装に変化している。とはいえ、長い髪は常に一つに束ねているし、下地しかしていないのではと思うほど地味なメイクなので、好感は持てる。笹原は六年一組の担任になったことでよく連絡し合うようになった。笹原はこの小学校においては珍しく偏差値五十五の有名私立大学出身なので、賢い同僚が同じ学年を受け持つことになって良かった。

 それはそうと木本豪の母親がアポなしで来ている。そもそも木本豪の母親は社会人経験というものが無いのだろうか。それとも教師はプライベートが無いと思っているのか。このあとは急いでテストの採点をして帰宅して直人の勉強の様子を見ないといけないのに。不幸中の幸いは、直人が最近は黙々と勉強していることだ。今日だけなら多少遅れても良いだろう。

 対面に座った木本豪の母親は相変わらずもじもじして視線を合わせようとしない。こんな状況でよく乗り込んで来たな。クレームでも言われるのだろうか。

「お母様、わざわざこんな時間にお越しいただいてありがとうございます。今……、普通なら夕食の準備とかでお忙しいでしょう。私も毎日、仕事終わり、休む暇もなくやるんですけど大変ですよね」

「今日は仕事休みやったから昼に作っておきまして」

 木本豪の母親は私の乾いた笑いに合わせるように下を向きながら口の端を引き上げた。

「お母様、お話の内容とは何だったでしょうか?」

 嫌味を言うことも面倒になり、さっさと切り上げて帰ろうと思った。

「実は豪が夏休みの初めに『東大に行く』って言いだしたんです」

 木本豪が、東大。あの注意したことも禄に聞かず、虫しか脳になさすぎて脳に虫が湧いている疑惑のある木本豪が、東大。

「終業式の日に、急に豪から『昆虫博士はどうやったらなれんの?』って聞かれたんです。私はよくわからんから、東大に行ったらいいんちゃうって答えたんです。そしたらあの子『トーダイって何』って言いだして。日本一頭が良い人が集まる大学やでって答えたら『賢ないと入れへんの?』って言ったんです。それから本屋さんでワークを買ったり模試を受けたいって言うから受けさせたんです」

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