第11話
食材の詰まったエコバッグで両手がふさがったまま上を向き、額に伝う汗がまつ毛の間をすり抜けて目に入ることを妨げた。耳たぶに蝉がぶら下がっているのではないかと思うほど喧しい声が鼓膜を震わせる。想像するだけで耳たぶに湿疹ができそうだ。目を細めながらアパートの壁や木を見てみるが、セミを発見できなかった。以前、階段を上っているときにアパートの壁を見ると鼠色のヤモリが張り付いていた。一歩踏み出した姿勢のまま動くことができなかった。ちょっとでも振動がヤモリに伝わると私の方に飛んで来るかもしれなかったからだ。結局いつまで経ってもヤモリは微動だにしないので足音を立てないようにゆっくりと階段に脚を下ろして上っていった。あれ以来、アパートの壁を直視することが怖くて仕方ない。
ドアノブに触れた手のひらに焼かれるような痛みが生じて反射的に放した。太陽の光を十分に受けて猛烈な熱さを籠らせているようだった。爪を立てながら開け、ただいまと言った。直人からの返事はない。リビングに向かうと直人は私に背を向けたまま振り向くことなく勉強していた。ページ数を見ると買い物に行ったときから経過した時間を考えれば妥当なペースで進められているが、前の一件もあったので念のために手を洗ったあとで確認しておかなければいけない。
「昼、そうめんでいいか?」
手を洗いながら直人に確認するが応答がない。勉強するようになったものの、私とコミュニケーションを取らないようになった。思春期、反抗期というものだろう。
私が直人と同じ年の頃も母や父のことが嫌いで仕方なかった。なによりもともと二人とも京都出身だったのに、滋賀の彦根より北で人より猿や猪の方が多いようなところにわざわざ一軒家を建てて住み着いたことが腹立たしかった。京都なら近くに商業施設がたくさんあるのに、移住先は周りを見れば山に囲まれ、そこから猿、鹿、猪、狸、ハクビシンが畑を荒らしにやってくる。冬は雪化粧どころではなく町を真っ白に染め上げて移動を不可能にしてしまう。何に惹かれてこんなところに住み着いたのか今でも理解しかねる。直人が生まれたとき両親は交通事故で死んだことにして、実家に行く機会をなくしたかったのだが私の真意を知らない夫は月に一回ペースで両親に子どもの顔を見せに行くことを提案した。唾が飛び散るほど反対し、結局は実現せず安心している。
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