第5話
その後は適当に話をして、さっさと帰らせた。木本豪の母親の背中に「あんたの息子はこのままやったら昆虫博士にはなれず、工業高校卒の工場勤務コースになってまうぞ」というメッセージを視線に込めてぶつけておいた。そのコースを自ら希望する分には一件問題ないかもしれない。しかし、ただでさえ機械化が進み、そしてAIも充実しつつある社会で、工場勤務は労働者が不要になってくる筆頭の職業だ。一方猿たちは視野が狭いからとりあえずそこを目指そうとする。狭い視野を広げてやり、様々な選択肢を見せてやるのが親の役割なのに、木本豪の母親はそれを放棄している。木本豪より木本豪の母親から教育していかないといけないかもしれない。
塾の教室に入ってすぐ受付カウンターがあり、その右端に来客対応用のブースがある。いつもここで三者懇談をするのだが、入退室する生徒や講師にプライバシーの内容の話が筒抜けなので、こそこそ話さなければならない。もっと場所を工夫すべきだ。
もれなく中高一貫校に受からせると謳っていたから直人を入会させたが、三年間、成績は全く上がっていない。それどころか六年になってから徐々に下がってきている。
授業直後だったのか、テキストを脇に抱えた教室長が前髪を整えながら向かいに座った。三年間同じ教室長だがまだ二十代半ばか後半くらいの男で、マッシュルームヘアーで額を覆っている。大きめのマスクは目から下を隠していて、もうこの教室長の顔を忘れてしまった。塾は学校とは違ってビジネスだから、顧客から信頼を得るために額を見せるべきだろう。この教室長は何も知らないのだろうか。思えば学校や塾という教育業界は閉鎖的である。無能な教師でも生徒から「先生」と言われることで、無意識に偉いと思うようになっていく人は多い。この目の前にいる教室長もそんな気がする。
「遅くなって申し訳ないです」
教室長はすぐに立ち上がって、裏に消えていった。おそらくこの前の模試の結果表を取りに行ったのだろう。直人に模試の出来具合を確認したときは鼻から弱弱しく声が抜けていく返事だったので結果に期待はしていない。できるわけがない。進学できる中学の選択肢が狭くなっていく事実を突っぱねたいのにできないもどかしさが蓄積されていく。隣に座る直人は他人事のような涼しい顔で、机上に置かれている塾の消しゴムを触っている。
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