第4話

 思考が脱線している間にも木本豪の母親のどうでも良い夏の話題で時間が経過していた。みんな知っているであろう表層をなぞっただけの夏風邪対策の知識を聞いても何の得にもならない。適当に話を切り上げて、木本豪の成績表を机上に滑らせた。七十点台のテストが多く、〈よくできた〉が一つもない。あるのは〈がんばろう〉が大半だ。唯一、理科が昆虫の範囲になったときだけ満点を取ったので〈できた〉になっている。これを見せて母親はどう思うのだろうか。

「マイペースで誰にでも優しいのは豪くんの良さですが、このままだと中学生になられてから授業についていくのが大変かもしれません」

 優しい、とは便利な言葉だ。何にも取り柄のない人間に対して言っておけば相手は優しかった場面を思い出して当てはめようとするからだ。きっと占い師も多用しているのだろう。木本豪の母親は姿勢をかがめ、成績表をじっくりと見入っている。先ほどのどうでも良い夏の知識を語っていた口は真一文字になっている。ようやく自分の息子の危機に気づいたか。わかったらさっさと個別指導塾に入塾して夏期講習を申し込んでほしい。

「悪い成績ですね」ぽつりと木本豪の母親が言った。

 私は声に出さない代わりに大きく頷いた。木本豪の母親は顔を上げ、なぜか緩やかに口角が上がっていて唇の間から前歯が少し見えた。右の前歯の色が薄く黒ずんでいた。にこやかになれる理由がわからず私の肌はまた粟立ち始めた。直人がこの成績だったら二時間以上説教している。

「豪くんはマイペースなところありますから学校の授業だけでは難しいところもあるのかもしれません。しかし、理科の生き物の範囲で百点取ったお力はありますから、塾や家庭学習で勉強の時間を増やせば、実力も上がってくると思いますよ」

「でもまあ勉強は嫌いですしね。嫌いなことさせても頭に入ってこないと思いますし」

 木本豪の母親はそう言って再び手元の成績表に視線を落とした。この母親は何にもわかっていない。学歴主義が批判されているとはいえ、人間の過去の実績を調べるには学歴が最重要視されているのだ。好きなことで生きていくなど勉強ができることが大前提の話だ。

「豪くんは将来、何になりたいとか言ってますか」

「昆虫博士になりたいってよう言ってますね」

 だったら勉強しろよ。大学などピンからキリまであるのだ。どこでも良いというわけではない。アルファベットも書けないようなスポーツだけで大学に入る人間たちと同じところになど行きたくないだろう。木本豪の母親には何を言ってものらりくらりとしか答えないから直接本人と話した方がよさそうだ。とはいえこの母親あってあの息子というかんじだから、効き目はないのだろう。

「昆虫お好きですもんね。この前も登校中にカマキリを捕まえて教室に持ってきて皆が集まったんで朝の会が遅れたんですよ」

「そうなんですよ。本当に好きで好きで」

 木本豪の母親は、濁った前歯を見せながら快活に笑った。そこは「そうでしたか。それはご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」と察して謝るのが当然の流れのはず。私の後半の言葉は聞こえていなかったのか。所詮、公立小学校の親は学がないから会話もまともにできないのであろう。

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