第3話

 教室の机の脚の近くに、雨雲のような色と形の埃がついている。やはり小六に掃除させても手間が増えるだけだ。とはいえ掃除は他者と協力する良い訓練だ。今日もジャス子は掃除をサボっている雄猿たちにきーきー怒って指図していた。ジャス子の影響力は身内のみに限られるということか。猿の世界でも雌は雄より地位が低いのか。

 黒板の上の時計はもうすぐ四時を差そうとしている。もう間もなく木本豪の母親が来る。むやみやたらに虫を教室に持ち込むのは控えさせてほしいことだけは忘れずに言おうと反芻する。母親と会うのは家庭訪問以来だが、木本家が虫かごだらけで土臭かったので母親の話など入ってこなかった。適当に話を切り上げて急ぎ足でコンビニに行き、強力な消臭剤スプレーを買って全身に吹きかけた。

「失礼します」

 木本豪の母親は息子に似ず細い。巨人がいたら鉛筆に間違われそうだと思っている。やけに頬骨が出っ張っていて、ハの字の眉毛は常に申し訳なさそうな表情をしている。謝られるのかと思いきや「暑いですね」と言いながら、私が促す前に向かいの席に座った。木本豪も痩せたら頬骨が出るんだろうか。密かに心配だったのは木本豪の母親から虫の臭いがするのではないかと言うことだった。しかし鼻の穴にガーゼを詰め込んでマスクで隠す対策が功を奏したのか、虫の臭いはしてこなかった。

「先生、お風邪ひかれてるんですか?」

「あ、いえ」

「鼻声やったから心配になりまして。夏風邪はしつこいって言いますし」

 木本家の人間は虫の臭いがしますので鼻の穴に詰め物をさせていただいておりますと言ってみたい気持ちが前に出た。それにより自分は虫臭いんだと気づいてほしかった。

 十八年前に教えてもらった懇談の流れを今でも忠実に取り入れている。新卒のときに寝る間を惜しんで練習していたおかげで、会話のできない親以外は円滑にコミュニケーションを取ることができる。話の通じない親の子たち、いや、猿らは襟足が妙に長いことや、授業中の私語を悪いと思わないヤツが多いという私の経験に基づいた仮説はあながち間違ってはいない。

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