第16話 B♭とC
「聞いてください。ドの音が合わないのです」
「音楽の事は門外漢だ。私では無くそこの女に聞いた方が早いだろう」
「ドはどうやって合わせばいいですか?」
「ピアノで」
「そのピアノの調律が」
それはどうしようもない。
「調律師の知り合いはいないのか」
「私にはいないかな」
「ということだ。残念だが諦めてくれ」
「他にも」
「なんだ。質問は一人一回と決まっている」
「では、またお伺いします」
「分かりました。待ってます」
「バカ、止めろ。また来るだろ」
スタスタと去っていく聖歌隊の女の子を見送って、ハルカさんはテーブルに頭を打ち付けた。そのままバカになればいいのに。
「今、失礼な事を考えただろう」
「気のせいです」
「それで聖歌隊の件は大方見当がついたと」
「ええ、次に来た時に確認するつもりよ。多分、吹奏楽を中学校でしていた子が混じっているはずよ」
「どういうことだ」
「ベー管のドって、B♭なの。ピアノみたいにCじゃないの」
頭を押さえたハルカさんを見やって、私は確かにすぐに答えておけばよかったと思えた。確かに次難解な疑問が来るかもしれないからだ。
「この子がそうです。それでは」
身長の高い女の子を見ずにハルカさんは小さく声を掛けた。
「何週目だ」
「先月は来なかった」
「それで」
「おろせって言うんでしょ。先生もそうよね」
判断に迷うところだ。高校生は子供では無い、相応の責任は負うべきだ。
それがどれほど大きい責任であったとしてもだ。
だが、相応を越えた場合はどうか。
例えば、それを選ぶだけで人生観が変わってしまうほどの決断なら、高校生は子供と言えなくなる。
「あなたはクソガキで、子供だけど、人生の責任は負うべきよ」
目の前の女の子が口を開いた瞬間、ハルカさんは先に言葉を出した。
「先生ならどうするは最悪手よ」
女の子は口を閉じた。
「その上でお前はどう思う」
「せめて中神さんと」
「お前」
「私は彼氏を両家の親の前で召喚する。私の経験談では無くて、人の経験を話しているだけだけど」
引いた隙をハルカさんは見逃さなかった。
「相手が逃げたか、それとも」
私は生きてきて初めてゾゾっとした恐怖を感じた。
あんな笑顔は二度と見たくない。
「相手が相応の職務についていて、前に出て来ずに、お前の親とお前に多大な中絶費用を用意した。そういうことだな」
「そうよ。生むなら認知しないって言われた」
「これは面倒だ。面倒なことになった。誰だ、私の親か?」
「違う」
この傍若無人っぷりを許しているなら、そこそこの社会的地位はあると見ていた。そうか、この学校の上か。
「こっちが調べて全て明らかにする前に言った方がいいと思うぞ。それで十二週はあっという間に過ぎる。人工妊娠中絶っていうのはな、十二週を過ぎた辺りから手術の方法が変わるんだ」
「止めなさい」
「見ろ」
「止めなさい」
「ではなぜ許した。全力で抵抗して、親に無理やりされたって言えば良かったんだ。その決断の遅さで人を一人殺す羽目になるんだ。この映像を見ろ。それで考えるんだ。考えるくらいの脳はあるだろう」
何度も目を逸らして、口を押えて全てを見た。見て、ただ泣いた。ハルカさんはそれを冷たい目で見て、私は居たたまれなくなった。私はそっと女の子を抱きしめた。
「会津にはこちらから言っておく。キリスト教において中絶は悪だと言うのに、アレの下半身はキリスト教徒で無かったようだ。対処が遅くて申し訳無かった。本当に申し訳ない」
「私は生むよ。そんで辞めない」
見送って二人きりになった。
「そう言えば、B♭の話はどうなった」
後日、会津という理事は免職になり、二か月後一人の女の子が春陽台を去った。
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