第6話 稀代の緊縛師

カーテンから漏れる光のなか、静一はフローリングの上で目を覚ました。手にはスマートフォンを握っている。どうやら、緊縛講習会に応募したところで力尽きて眠っていたようだ。


 起き上がりながら目に入ったのは、部屋の隅に置かれた鞄、ハンガーラックに欠けられた緋色の縄、吸い殻が一本だけ入った灰皿と煙草入れが置かれたローテーブルだった。昨夜からなにひとつ配置が換わっていない。高山はまだ眠っているのだろう。


 あくびをしながら伸びをすると全身の冷えと強張りが気になった。シャワーは勝手に使って良いと言われている。食欲もまだ湧かないため先に身体を温めようと居間を出た。


 洗面台には高級化粧品のロゴがついたボトルが無造作に並んでいた。元恋人にねだられた際にあまりの値段に顔が引きつったことを覚えている。そのときは無駄遣いとしか思えなかったが、あの滑らかな肌や柔らかな唇を維持するためならば必要な投資だと思えてくる。

 我ながら現金なものだと思いながら浴室に入り熱めのシャワーを浴びると、ようやく空腹を感じた。少し気は引けるが、冷蔵庫のものは勝手に食べて構わないと言われている。


 静一は手早くシャワーを済ませ着替えると、キッチンに向かい冷蔵庫を開けた。そして、すぐに頭を抱えることとなった。中に入っていたのは一個入りのブリトー、無数のゼリー飲料、ミネラルウォーター。それ以外は何もない。


「……おはよう」


 突然、背後から掠れた声が響いた。振り返ると高山が立っている。着崩れた襟から覗く胸には紅い痕が走っていた。おのずと手に伝わる縄の感触や吐息交じりの呻きが思い出され目が離せなくなる。


「……なに?」


「あ、いえ、なんでもありません。おはようございます」


「うん。水、もらえる?」


「はい。どうぞ」


「どうも」


 黒い袖から覗く手が差し出されたペットボトルを受け取りキャップに指をかける。次の瞬間、眠たげな顔が微かに眉を寄せた。


「……」


「高山さん?」


「これ、開けて」


「え? あ、はい」


 言われるままにキャップを外し再び差し出す。二口ほど中身を飲むと薄い唇が深く息を吐いた。


「朝、もう食べた?」


「いえ。まだこれからです」


「そう。ああ、ブリトーは君のだから」


「良いんですか?」


「うん。適当に選んだから、気に入るかは分からないけど」


「そんな。ありがたくいただきますよ」


「そう」


 気のない返事をしながら高山は居間に移動し、ローテーブルの傍に腰掛け煙草を手に取った。静一もすぐに後に続きライターを点ける。


「どうぞ」


「ん」


 煙をくゆらせながらどこか遠くを見つめる目には、相変わらず誰の姿も映っていないように見える。それでも、自分には必要ないのに朝食を選んだことを思うと多少は意識されているのだろう。そんなことを考えていると振動音が響いた。


「……細川樹氷、緊縛講習会?」


 スマートフォンに向けられた切れ長の目が、眼鏡の奥で訝しげに細められる。画面に表示されていたのは講習会の受付完了通知だった。


「応募したの?」


「はい。昨晩、見つけて」


「ふーん」


 そう呟くと、高山は深く煙を吸い込んだ。そして、画面から目を離し再びどこか遠くを眺めながら煙を吐き出す。


「……これ、誰と出るつもり?」


「できればですが、高山さんと」


「そう」


 短い会話が終わると、甘い香りが充満する部屋に沈黙が訪れた。響くのは煙とともに吐き出される深い息ばかり。

 いたたまれなく思っていると、長い指が短くなった煙草を灰皿に軽く押しつけた。


「この関係、続けたいんだ」


 眼鏡越しに、切れ長の目が真っ直ぐ自分を見つめている。


「……はい。ただ今のままでは、貴方に相応しい縄にはほど遠いので」


「俺に相応しい縄、ね」


 気怠げな声とともに、白い手が黒革のケースから二本目を取りだし口に運ぶ。すかさずライター火を点けると、長い睫毛が伏せられた。


「……なら、連絡入れとく」


「誰に、ですか?」


「決まってるでしょ。樹氷に」


 平然と放たれた言葉に軽く身体が跳ねた。


 たしかに樹氷の縄を纏った写真が残っているのだから、連絡先を知っていているのも当然だろう。それでも、目の前の男が自分のためになにか行動を起こすとは少しも考えていなかった。


「あんまり、嬉しそうじゃないね」


「いえ、そんなことはないです! ただ、なぜそこまでしてもらえるのかな、と」


「なぜ、か」


 高山は煙を一喫みすると薄く微笑んだ。


「君なら、『美の極限』にたどり着けるかもしれないと思ったから」


 薄い唇が甘い煙と白々しい言葉を吐き出す。

 からかわれていることは明白だった。それでも、切り捨てられるよりはずっとマシに思える。


「……精進、します」


「うん。いい返事だね」


 煙草を灰皿に置いた手が軽く頭をなでる。


「それじゃ、食事にしようか」


「はい。今お持ちします」


「そ。ありがとう」


 再び頭を軽くなでたあと手はおもむろに離れていった。かすかに残る感触に名残惜しさを感じながら、静一は立ち上がりキッチンスペースへと向かった。

 

※※※


 自宅に戻った静一は耐えがたい眠気に身を任せベッドへ倒れ込んだ。


「了承はとれたから」


「ありがとうございます」


「縄、週末までちゃんと手入れを続けて」


「かしこまりました」


 しかし、別れ際の会話が思い出され自然と目が覚めた。


「約束は守らないと、か」


 独り言ちながら休息を求める身体に活を入れ起き上がる。せっかく手に入れた機会を無駄にしたくはない。

 眠い目を擦り鞄から緋色の縄を取りだし、白い手袋をはめて蜜蝋を掬い擦り鞣す。時間が許す限り何度も。

 休日が明け月末月初の激務が訪れても、命じられた手入れだけは忘れずに続けた。


 相変わらず、日中に高山と仕事以外の会話をすることはできていない。それも仕方ないと思いながら残業続きの日々をこなすうち、瞬く間に週末が訪れた。


「すごい疲れた顔だけど、平気?」


 青空のした、待ち合わせた駅で高山は困惑した表情を浮かべた。珍しいと思いながらも痙攣する表情筋で笑顔を作る。


「ええ、大丈夫です。月末月初は毎回こんなもんですし」


「ならいいけど。じゃあ、向かうよ」


「はい」


 二人は人混みを抜け、大通りから一本外れた道にある雑居ビルに入った。テナント看板に従い、狭いエレベーターで三階へ向かう。重い扉が開くとすぐにバレエスタジオの看板がすぐに目に入った。すでに何組か到着しているのか、開け放たれた入り口からざわめきが聞こえてくる。


「はぁい。じゃあ、こちらにお名前とご住所をかいてくださいねぇ」


 不意に鼻にかかった高い男性の声が耳に届いた。かすかに聞き覚えのある声だ。


「ほら、行くよ」


「あ、はい。すみません」


 早足に進む姿勢の良い後ろ姿に続いて廊下を進み会場へ足を踏み入れる。


「あ」


 タブレットを手に受付で作業する人物に、思わず声が漏れた。受付手続きを行っていたのは髪を明るい色に染めた小柄な青年。高山の動画にあったリンク先で、耳障りな嬌声をあげていたあの受け手だった。

 困惑していると青年は受付け用のタブレットから顔を上げた。


「おまたせしましたぁ。次の参加者さんですね……!?」


 高山の姿を認めた途端、舌足らずな声が止まり異様に黒目の大きな目が見開かれた。


「うん。高山か平川で申し込んだはずだけど」


 相手の反応を気にすることなく、淡々とした声が話を進める。青年は顔を引きつらせたあと、音を立てながらタブレットを置き嘲るような笑顔を浮かべた。


「先生に捨てられたくせに、よくもまぁ顔を出せたもんね。この恥知らず、さっさと帰りなさいよ!」


「樹氷には参加の許可もらってるけど」


「ちょっ! 先生を呼び捨てにしてんじゃないわよっ!」


 受付に甲高い叫びが響き渡る。

 同じ縛師の受け手を務めていたのだから、二人に面識があったとしてもなんら不思議はない。それでも、状況をすぐに飲み込むことができなかった。ここにあの青年がいるのだとしたら、この会の主催者は。


「こら、イツキ。なにを騒いでいるんだ」


 不意に落ち着いた声と共にスタジオに続く扉が開き、一人の男性が現れた。


 ほつれ一つなく後ろに撫でつけられた白髪交じりの黒髪。

 端正だがどこか気弱な印象をうける顔立ち。

 漆黒の着流しを纏い純白の帯を締めた長身の体躯。

 静かに歩みを進めるシワ一つない足袋に包まれた足。


 その姿はまさしく、この会の主催者にして稀代の緊縛師という名をほしいままとする細川樹氷その人だった。


「参加者の皆さまにご迷惑がかかるだろう」


「ごめんなさい、先生……。でもアイツが……」


「言い訳をするんじゃない」


「はい……」


 イツキが肩を落とす傍で、樹氷は高山に顔を向ける。


「騒がせて悪かったな。円」


「別に」


「変わりはなかったか?」


「特には」


「はは、それなら何よりだ」


 すぐ傍で苦笑を浮かべる男の背格好は、黒い肌襦袢に緋色の翅を施していた件の緊縛師となんら相違なかった。

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緋の翅 鯨井イルカ @TanakaYoshio

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