第5話 縄を食う肌

「それじゃ、始めようか」


 高山は眼鏡を外してテーブルに置き、軽く纏められていた緋色の縄を手に取った。


「はい」


「どうも」


 軽く手に触れた指先は驚くほど滑らかで柔らかい。記憶に残っている元恋人の感触よりもずっと。きっと、黒い肌襦袢から覗く手入れの行き届いた肌はどこも同じ感触なのだろう。今からそこに自分が鞣した縄が絡んでいく。

 思わず喉が鳴った。


「後手縛り、服の上からでいいよね」


 抑揚のない声に静一は我に返った。

 同性とはいえ、さすがにいきなり素肌を晒すのは抵抗があるのかもしれない。惜しいとは思うが、ことを急いたせいでこの美しい身体を縛り上げる機会を失うことのほうが恐ろしい。


「は、はい。そう、ですよね。それで、セーフワードとかは、どうしますか?」


「は?」


 睫毛の長い切れ長の目が俄に険しくなり、部屋の中の空気が一気に凍り付く。気づかいの仕方を間違えたことは明らかだった。


「なに? 君も緊縛と他のプレイを混同する類なの?」


 落ち着いた声には怒気があふれている。

 それも当然だろう。自分だって同じような内容で元恋人を破局の際に怒鳴りつけた。


「いえ、そういうわけ、では。ただ、無理をさせてなにか事故があったらいけないと」


「……そう」


 深いため息のあと、険しい目つきは呆れた表情に変わった。


「別に、嫌なときはやめてって言うから」


「そう、ですか」


「うん。だから、二度と下らないこと言わないで」


「そう、ですよね。申し訳ございませんでした」


 最敬礼で下げた頭がため息と共に軽くなでられる。


「もういいから。早く始めて」


「はい」


 恐る恐る頭をあげると、高山は姿見の前で両手を後ろに回して立っていた。大きく抜いた襟からは白いうなじが覗いている。静一は深く息をすると、その背後に移動し手にした縄を半分に折った。


 一言に後手縛りと言われても、それが表わすものは緊縛師によって異なる。それでも、目の前にある姿勢の良い後ろ姿が求めているものは容易に想像できた。


 あの動画と同じ翅に似た縄。

 あそこまで複雑な形にするには縄の本数が足りないが、基本となる形を作ることは出来るはず。


「失礼します」


 軽く頭を下げ、腕と背中の隙に縄を滑り込ませ手首を巻き一度結ぶ。それから、左上腕から縄を回し胸縄を掛ける。

 世に出回っている指南書、細川樹氷が記したものでさえ「ここでキツく縛りすぎない」と注意が書かれていた。件の動画もそれほど強く縛っていたようには見えなかった。もちろん、静一もそのつもりでいた。

 しかし、緋色の縄は自ずと黒い肌襦袢へ深く沈んでいった。縄を食う肌。どこかのコラムに載っていたそんな言葉が頭に浮かぶ。


「ぅ」


 不意に一度も崩れたことのなかった姿勢が僅かに前へと傾き、吐息交じりの呻き声があがった。思わず手が緩む。


「すみません! 大丈夫ですか!?」


「……っ」


 鏡の中に詰るような表情が浮かんだ。

 今、やめてなんて言った?

 そんな言葉が聞こえてくるようだ。


「……いえ。すみません。続けます」


 乱れた前髪がかかる顔が軽く頷く。そこにはたしかに、仄かな苦痛も垣間見えた。しかし、鏡越しに向けられる潤んだ目と、うっすらと上気した頬が示しているのは間違いなく恍惚だ。再び縄を握る手に力が戻る。


 それから静一は熱を帯びた表情と黒い衣の下に眠る肌に導かれるまま、一心不乱に縄を走らせ、返し、結んだ。


「ふ……、んっ」


 その度に高山は微かに身じろぎ、嬌声を押し殺すような吐息をこぼした。


 ひどく長くとも短くとも思える時間が過ぎ縄尻を纏めたところで、全身から一気に力が抜けた。

 背中にかかる縄に崩れはなく、胸側も僅かなズレすらなく平行になっているように見える。もとより手先は器用なほうだという自負はあったが、受け手側にはどう取られているのだろうか。

 恐る恐る鏡に映る顔に目を向けると、惚けた表情が浮かんでいた。


「……うん。上手にできたね」


「ありがとう、ございます」


「正確で容赦がない、樹氷に似てる」


 掠れた声が告げた言葉に全身の血が沸き立った。


「本当ですか!?」


「うん。練習すれば、すごく良くなると思う」


 なら、次が有るということだろうか。そう尋ねるより先に鏡の中で微笑む唇が開いた。


「でも、今日はここまで」


「は、はい。今すぐ!」


 言われるまま縄を解くと、高山は崩れるように床に座り込み、ローテーブルに両腕を投げ出すようにしてもたれ掛かった。黒い袖から覗く白い肌が艶めかしく、昔読んだ耽美派の小説の一説を思い起こさせた。


「葡萄酒でも、用意しておくべきだった?」


 気怠げな笑顔が同じ小説をなぞった質問を口にする。


「いえ、大丈夫です。あまり酒は得意じゃないので」


「そう。分かった」


 短い言葉の後、笑みは徐々に消えていった。どこか遠くを見つめる、長い睫毛に縁取られた漆黒の目。オフィスで見せる表情に似ているが、それよりも憂いのようなものが強く感じられた。それと同時に、瞬きをした途端に幻のように消えてしまうのではないかという不安も。


「あの……」


「ねえ、咥えさせて」


「……はい?」


 突然の言葉に不安は消し飛んだ。

 気怠げな目が部屋の隅に置かれたままの鞄に向けられている。


「煙草。あの中に入ってるから」


「タ、バコ?」


「そ。早くして」


「は、はい!」


 駆けよって鞄を開けると、緋色の飾り房がついた革のケースはすぐに見つかった。急いでテーブルに戻り、細身の煙草を取り出す。高山は緩やかに上体を起こすと白い喉を晒すように軽く顎を上げだ。震える手つきでフィルターを口元に運ぶと、指の付け根に唇が触れた。柔らかく微かに湿った感触に身体の芯に燻りを感じる。


「火」


 くぐもった命令が掌をくすぐった。自分で手を動かすつもりはないのだろう。


「はい」


 軽く唇を撫でるように煙草を逆の手に持替える。黒い肌襦袢の肩が微かに震えたようにも見えたが、気怠げな表情は少しも動いていない。静一はそれ以上追及をすることなく、利き手でライターをつけた。部屋の中には洋酒に似た甘い煙りが広がる。深く息を吸い込んだ後、柔らかな唇は微か緩んだ。その頃合いを見逃さずに煙草を離す。吐き出された甘い煙は天井付近で霧散していく。


「もう、いいから」


「はい」


 命じられるまま、テーブルに置かれた灰皿で火をもみ消す。煙の中に強いタールの臭いが混じった。


「ありがとう。俺はもう寝るから、食事は冷蔵庫にあるの適当に食べて」


「ありがとうございます」


「客用の寝具はそこのクローゼット。シャワーも勝手につかっていいから」


 高山は眼鏡を手に取ると寝室に去っていった。

 残された静一は食事をする気にも眠る気にもなれず、一人テーブルの傍に腰掛けた。


  正確で容赦がない。樹氷に似てる。

  練習すれば、すごく良くなると思う。


 先ほど掛けられた言葉が鮮明に蘇る。

 無意識のうちにカウンターに置かれた写真立てに目が向いた。


 褒められはしたものの、あの肌を縛るには実力も経験も足りないことは自分が一番分かっている。それでも滑らかな指先、肌に吸い込まれていく縄、柔らかな唇、そんな掌に残る感触たちを今日限りのものにしたくはない。

 深いため息を吐いたそのとき、部屋の隅に置いた鞄から微かに振動音が響いた。取り出してみると画面にSNSの通知が表示されていた。


「細川樹氷さんが新しい記事を投稿しました」


 その通知をタップした先で、静一は目を見開いた。


「緊縛講習会開催のお知らせ」


 詳細を確認すると、開催場所は都内某所にあるバレエスタジオ、開催日は来週の土曜日、募集は三組前後でかならず緊縛師と受け手のペアで応募すること、応募者多数の場合は抽選。樹氷のアカウントは一年近く更新がなかった。それがこのタイミングで講習会の告知を行っている。


 静一は迷うことなく応募用フォームを開き必要事項を入力した。

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