第2話 甘い煙

 立ちくらみもおさまり、静一はヤニで汚れたカウンターに手を突きながら天板の木目を数えていた。高山は相変わらずどこか遠くを眺めながら紫煙をくゆらせている。


 勢い余って声をかけたものの、後に続く言葉が思い着かなかった。結局、しばらくの沈黙を経て掛けられた、「もう一本吸ってもいい?」という言葉を拒否することもできずに今に至っている。

 なんとか話の続きを切り出そうと焦るなか、深いため息が耳に届いた。


「ねえ、平川君、だっけ?」


「は、はい」


「それ、吸わないの?」


 眼鏡越しの冷ややかな視線がテーブル上の弓矢が描かれた紙箱に向けられる。


「はい。高山、さんと、話すきっかけがほしかっただけ、なので」


「そう」


「えっと、要り、ますか?」


「いらない。好きじゃないから」


 骨張った白い手が細身の煙草を口に運んだ。深いため息とともに零れる煙には、洋酒に似た香りが混じっている。


「それで、俺と話したかったことっていうのは、あの動画のこと?」


「分かり、ますよね」


「あんな言い回しをされればね。それに、こういうの初めてじゃないし」


 高山は再び煙草を咥え遠くを見つめた。


「目的は金? それとも身体?」


 甘い煙を吐き出す顔には、これといった表情は浮かんでいない。その目になにも映っていないようにさえ見える。


「今、面倒な関係とかしんどいから、金にしてほしいんだけど」


「別に、脅迫をしたいわけじゃ」


「なら、どういうわけ?」


「それは」


 ここで答えを間違えればあの動画を話題にするどころか、簡単な言葉を交わすことすら難しくなるだろう。静一は背筋に冷たい物を感じながら、タールと灰と香料が混ざり合った空気の中で深く呼吸をした。今、一番に伝えるべき言葉は。


「――ただ、あの動画があまりにも美しかったので」


「……そう」


 灰を落とす仕草のなか、漆黒の瞳に一瞬だけ自分の顔が映った気がした。


「だから――」


 話を進めようとしたところで、ガラス戸が微かに音を立てた。猫背の男性社員が、軽く咳き込みながら近づいてくる。


「場所、変えようか。夜は空いてるよね」


「え」


「じゃあ、先に経理部に行ってるから」


 高山は吸い殻を灰皿に滑り込ませるように捨て、喫煙所を出ていく。静一もカウンターに置いた煙草をそのままにして後を追った。



 原因不明のエラーメッセージはナオミが目を輝かせて見つめるなか、いとも簡単に解決した。


「対処はしたけど、根本的な改修が要ると思う。部長には言っておくから」


 そう言い残し、高山は表情一つ変えず社内システム部へと戻っていった。まるで、喫煙所での出来事などなかったかのように。ひょっとしたら、夜の予定を聞いたのも体よく話を切り上げるためだったのかもしれない。


 他にも動画があるなら教えてほしい。動画じゃなくても良い。写真でも、絵でも、何らかの形であの精緻な縄目を纏った姿は残っていないのか。もっと見たい。他の誰でもない貴方の姿を。


 伝えそびれた言葉が頭の中にひしめく。


 後悔から目を背け仕事に集中しているうちに、画面端に表示された時刻は十八時を迎えていた。


「お疲れさま。旦那の帰りが早いみたいだから私はもう帰るけど、平川くんはどうする?」


 すでに身支度を整え鞄を手にしたナオミが机の引き出しに鍵を掛ける。どうしても今日中に片づける必要がある仕事はないが。


「失礼します」


 不意に執務室の扉が開き、黒革の鞄を肩に掛けた高山が姿を現わした。

 眼鏡越しの視線が伝票と電卓が置かれたままの机に向けられる。


「残業? なら日を改めるけど」


「あ、いえ。今から片付けますんで!」


「そう。なら、喫煙所に行ってる」


「分かりました。すぐ行きます!」


 特に返事をすることもなく、姿勢の良い後ろ姿が執務室を出ていった。


「え? なに? 二人とも仲良かったの?」


「えーと、ちょっと話してみたら趣味があった、みたいなかんじです」


「へー。平々凡々を絵に描いたような平川くんと、超絶イケメンの高山くんがねぇ」


 感慨深そうに放たれる失礼な言葉に、反論する気は起きなかった。他の誰よりも自分が一番に驚いているのだから。


「なら、早く片付けて行ってあげな。イケメンを待たせたらいけません、って就業規定にも書かれてるんだから」


「ろくでもない規則を捏造しないでください。ともかく、俺も今日はこれで失礼しますね」


「はーい。お疲れー」


 静一はすぐに机を片付けると、喫煙所へ向かった。折しも高山が濁ったガラス戸から姿を現わす。


「早かったね」


「ええ、待たせる訳にはいかないので」


「別に気にしないけど。それで、場所はこっちで決めていい?」


「あ、はい、お願いします」


「わかった。ついてきて」


 半歩先を歩く背中を追いながらたどり着いたのは、接待の領収書でよく名前を目にする店だった。

 照明の落とされた個室のなか、滑らかな手が口元に細身の煙草を運ぶ。シャツの袖からは骨張った手首が微かに覗いている。鉄砲縛りを施したら間違いなく映えるはずだ。


 緋色の縄が白い手を指の一本まで残すことなく飾っていくさま、掠れた声を軽くこぼしながら姿勢の良い背中が微かに身じろぐさま、できあがった縄目の美しさがありありと目に浮かぶ。


「それで、話したかったことの続きって?」


 甘い煙とともに吐き出された抑揚のない声とともに、鮮明な空想はかき消された。


「えーと、動画って他にもあったりしませんよね?」


「無いね。新しいのも出ない」


「そうですか」


 どれだけ検索を掛けても少しも見つからないのだから覚悟はしていた。それでも抑えきれない落胆が、あまり好きではないビールのジョッキを煽らせる。


「縛師にね、お前とはもうやっていけないって言われたから」


「そうなんですか?」


「うん」


 意外な言葉だった。あの緊縛師が自ら目の前の男を手放すことは絶対にない。そう思えるほど、あの精緻で繊細な縄目は高山を飾るのに相応しかった。少なくとも、後任の青年が身に纏って良い物ではない。鼻にかかった大げさな嬌声が蘇り軽い吐き気が込みあがる。


「こっちもさ、一つ聞きたいんだけど」


 どこか遠くを眺めていた目が、不意に視線を合わせた。


「一番好きな縛師って、誰?」


「一番、ですか?」


「そう、一番」


「なら細川樹氷です」


 静一は迷うことなく答えた。


 細川樹氷。正確にして無慈悲、時に幾何学模様と称される縄目が特徴の緊縛師の名だ。二十代前半で老舗の緊縛ショーに参加してから瞬く間に界隈を席巻し、世界的にも注目されるようになった。ここ最近新たなショーの開催や写真集の出版はないが、その名は朽ちることなくとどろき続けている。


 件の緊縛師が施す縄目に惹かれたことも確かだが、一番と決めるには見た縛りの数が少なすぎた。


「受け手を美の極限へ至らせられるのなら、苦痛を与えることも、それによって恨まれることも厭わない。か」


 かつてインタビュー記事に載っていた樹氷の言葉を一字一句間違えることなく呟きながら、白い手が煙草を灰皿に押しつけた。


「俺もそのほうが好き。少なくとも、縄をただのセックスの道具としか思えなくなったやつよりは」


 明言はしていないが、あの緊縛師を指していると察するのは容易だった。


 それでも、あの縄目をただの道具と言い捨ててしまうのはあまりにも。


「今日、これからまだ時間あるよね」


 腑に落ちない気持ちを汲むことなく、無表情な顔が当然のように話を進めていく。


「はい」


 その無機質な美しさを拒絶する術など、静一は持ち合わせていなかった。

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