緋の翅
鯨井イルカ
第1話 緋の翅
蝋燭の火が揺れる薄暗い部屋、黒い長襦袢の背中に緋色の蜉蝣が翅を広げとまっている。そう思えるほど、画面に映し出された後ろ手縛りの縄目は繊細な美しさを持っていた。しかし、目を奪うのはそれだけではない。
緋色の縄で自由を奪われている男性。
抜いた衿から覗く白く滑らかな首筋と艶やかな黒髪。顔を被う白狐の半面から紅を引いた薄い唇が覗いている。軽く身じろぐたびに耳元の飾り房が揺れ、気怠げなBGMに掠れた呻き声が微かに交じった。
ずっとこの姿を見つめていたい。そう思ったところで、画面は急に暗転し軽快な音楽が流れだした。
続きは下記サイトにて。
どこか人をバカにしたようなフォントが、別の成人向け動画サイトのアドレスを記載している。平川静一はそこで深いため息を吐いた。
静一が大手動画サイトでその動画を見つけたのは一年ほど前だった。もとより緊縛に興味があり、部屋の中にはその手の書籍やDVDが大量に保管されていた。もちろん、簡単には一目につかない所に。しかし、それを当時交際していた恋人に見つかり勝手に捨てられてしまった。
「こんな趣味隠してたなんて最低!」
「人の物を勝手に捨てるほうが最低だろ!?」
「はぁ!? 意味分かんない!? どうせ私のことも無理やり縛ったり叩いたりしてやろうって思ってたんでしょ!? このDV男!」
「ふざけんな! 俺が好きなのは緊縛だけだ! 大体、お前みたいな体型の奴縛ったって美しくもなんともないだろう!?」
「ふざけないでよ!」
最後の会話と頬を張られた痛みが蘇る。
その後、面倒な手続きを色々と経て捨てられた物に対する損害賠償は請求できた。それでも、今では簡単に手に入らない物も多い。その日も、どうしてももう一度手に入れたいDVDを探し、何度もキーワードを変えて検索を続けていた。
そんな中たどり着いたのがこの動画だった。
概要欄には以前行ったライブ配信のアーカイブと記されている。はじめは受け手が男性だったこともあり、検索にも疲れてきたからこういうイロモノで気分転換でもするか、と軽い気持ちで開いただけだった。しかし、すぐに画面から目を離せなくなった。方相氏の面をつけた緊縛師が淡々と正確に縄を掛けていく様も、受け手の容姿やかるく声を漏らしながら自由を奪われていく様も、できあがった縄目も全てが理想そのものだった。いつか、自分にもこんな緊縛ができたなら。
二度目のため息とともに、リンクを開くことなく動画が閉じられた。この先に待っているものがなにかはもう分かっている。元々の動画の受け手とは似ても似つかない、髪を明るい色に染めた小柄な青年が縛られたまま、覆面の緊縛師と行為におよぶ動画だ。
受け手の容姿はたしかに可愛らしいという印象は受けた。縄目も繊細で美しいことに変わりない。しかし、あからさまに媚びた表情や、鼻にかかった高くわざとらしい嬌声がどうしても受け付けられない。同じ投稿者の別の動画をくまなく探したが、あの黒髪の受け手の動画は見つけられなかった。その状況は今夜も変わらない。
静一はノートパソコンを閉じるとベッドへと向かった。
一夜が明け、静一はいつも通り勤め先に出社し、経費申請システムの画面とにらみ合っていた。表示されているのは見慣れないエラーメッセージ。隣では先輩の女性社員が不安げな表情を浮かべている。
「どう? 平川くん、原因わかりそう?」
「すみません、どうもさっぱりですね」
「そっか」
短い返事に落胆が隠し切れていない。
「早く直さないと、来週からものすごく大変だよね」
「そうですよね」
「本当に、なんで月末月初ってこんなに忙しいんだろう……」
「まあ、経理部の宿命ですよね」
「本っ当にね。ああ、もう、最低でも簿記三級くらいの内容は社会人の必須常識になってくれればいいのに」
「あはは、本当ですね」
苦笑いを浮かべ相槌を打ちながらも席を立つ。今は先輩と共に愚痴を吐くより先に、このエラーを解決しないければならない。
「とりあえず、システム部に話を聞いてきますよ」
「ありがとう! でも、事前に内線入れなくて大丈夫かな?」
「そんなことしたら、あいつら絶対に『折り返し連絡します』って言って夕方くらいまで放置しますよ」
「ああー、たしかにー」
「というわけで行ってきます。席外す間の電話番おねがいしますね、ナオミ先輩」
「了解!」
軽快な返事を受け、静一は社内システム部の執務室へと向かった。
大きな案件が一段落したプログラマ等の情報技術者が、次の仕事まで社内システムの運用保守を行う部署。それがこの会社での社内システム部だった。当然、技術者たちはあくまで仕事のつなぎという意識が強いため業務に対するモチベーションは低い。そのうえ室内の空気はいつもどこか澱んでいる。出来ることならば近づきたくない場所だ。それでも、謎のエラーを放置すれば絶望的なことが起こるのは明白だ。
「すみませーん。失礼しまーす」
扉を開けると煙草の臭いが混じる空気が一気に流れ出す。思わずこぼれそうになった呻きを堪えて笑顔を作っていると、姿勢の悪い初老の男性がおもむろにディスプレイから顔をあげた。
「なにか?」
「ええとですね、経費申請システムでエラーメッセージが出てしまいまして」
「ああ、そう」
濁った目が不機嫌さを隠そうともせずに視線を近くの席へ送る。その先には、やけに姿勢のいい黒縁眼鏡の青年が座っていた。
「高山君」
「はい?」
高山と呼ばれたが青年がディスプレイから顔を放した。大きな眼鏡が目立っているが、目鼻立ちはかなり整っている。きっとナオミが見たら、イケメンが職場にいると生きる希望がわくよね、などと騒ぎ立てるだろう。だだ、容姿の良さよりも気にかかることがあった。
「悪いけど、見てきてくれる?」
「はい」
短く返事をする微かに掠れた声。高山とは顔を合わせたことはおろか、業務連絡で電話したことすらない。それなのに、聞き覚えを感じる。
「ねえ」
いつの間にか、眼鏡越しの切れ長の目に見つめられていた。
「今から見にいくけど、先に一服してもいい?」
「ああ、はい。どうぞ」
「そ。ありがとう」
骨張った白い手が机の引き出しから黒革の煙草入れを取り出す。そこについていた物に目を奪われた。
あの白狐の半面と同じ緋色の飾り房。
「じゃあ、後で」
姿勢のいい後ろ姿が振り返ることなく執務室を出ていく。
静一は急いで一階に併設されたコンビニエンスストアに向かい、一番安いライターと煙草を購入すると、また急いで喫煙所へと向かった。ガラス張りの狭い部屋の中では、高山が遠くを見つめながら細身の煙草をくゆらせている。他に社員の姿はない。意を決して扉を開けると黒縁眼鏡をかけた顔がゆっくりと振り向いた。
「煙草、吸うんだ?」
「ええ、まあ、たまには」
嘘を吐きながら、たどたどしい手つきで紙箱から短い煙草を取りだして口にくわえる。それだけで、甘さと古い油と苦味が混じった異様な味を感じた。生まれてこの方煙草をすったことはない。それでも、なんとかして業務以外の話をするきっかけが欲しい。同じ喫煙者なら軽い世間話をするのも不自然ではないはずだ。ただ、どうやって本題を切り出せばいいのだろうか。あの動画に関する話題を。
逡巡しながら、火を点け軽く煙を吸い込んだ。その時。
「!?」
口に耐えがたい煙の味が広がるとともに、視界がぐるりと廻転した。横転さえしなかったものの突然崩れ落ちた同僚に向かって、眼鏡越しの切れ長の目が見開かれる。
「えっと、大丈夫?」
「すみません……、あ」
困惑気味に差し出された白い手を掴んだ瞬間、高山にかけるべき言葉が頭の中をよぎった。
「あ? 頭痛いとか?」
「あれすてっど……あっと、らすと」
耽美派の短編小説にあった台詞。
目の前の男があの動画の受け手なら、きっと知らないことはないだろう。そんな盲信にも似た確信があった。
「……君と上海行きの汽船の中で、深い関係になった覚えはないけど?」
少し掠れた声が呆れたように件の小説をなぞった言葉を放つ。
眼鏡越しの仄かな蔑みを含んだ目に、静一は背筋が粟立っていくのを感じた。
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