第3話 白手袋と蜜蝋

 食事もそこそこに店を出て、相変わらず半歩先を歩く背中を追いながら静一はオフィス街の片隅に建つマンションにたどり着いた。

 エントランスを抜け、年季の入ったエレベーターに乗り込み四階で降りる。高山は鞄から鍵を取り出し、すぐ近くの扉を開けた。


「入って」


 抑揚のない声に促され、微かに甘い煙の香りが漂う部屋に足を踏み入れる。

 その瞬間に言葉を失った。


 靴箱の上に飾られたA5サイズの写真。

 その中で黒い肌襦袢を着た青年が抱えた膝に顔を埋めてうずくまっている。

 全身を包むのは緋色の滑らかな縄。

 

 それが形作る全ての内角が百二十度に保たれた六角形の連続は、まさしく。


「細川、樹氷?」


「うん。そう」


 姿勢の良い後ろ姿は短い返事だけをして部屋に消えていく。


 なぜ細川樹氷の作品がここに?

 縛られているのは高山だろうか?

 二人にはいったいどんな関係が?

 もっと他に作品はないのだろうか?

 頭の中が疑問符で埋め尽くされる。


 そのまま時が止まったように、黒い生地とそこから零れる白い肌に食い込む歪みのない正六角形から目が離せなくなった。


「お待たせ」


 扉が軽く軋む音とともに、辺りに甘い煙と樟脳が混じり合った香りが漂う。顔を上げた静一は息を飲んだ。

 眼鏡を外した高山が写真と同じ肌襦袢をまとい仄暗い玄関に立っている。手にしているのは緋色に染められた麻縄の束。


「その格好は、一体――」


「これ、処理してきて。週末までに」


 滑らかな手が有無を言わさずに緋色の束を押しつける。


「え? あの、処理というと?」


「縛り用の処理」


 さも当然と言いたげな声に細川樹氷が一度だけ出版した指南書を思い出した。そこには受け手を縛るにはそれ相応の準備がいるとあった。手元の縄を確かめる。手触りは硬く表面は所々が毛羽立ち、顔を近づけてみると微かに油臭い。このままでは到底使えそうにない。


「好きなように処理していいから」


「えーと、なぜ、そんな話になっているんですか?」


「俺のこと、縛りたかったんでしょ?」


 射貫くような視線を伴いながら掠れた声が核心を突く。思わず目を反らすと再び写真が目に入った。

 あの動画の続きや他の作品が見られればいいと思っていた。その願いはすでに叶っている。今までずっと作品を享受するだけだった者が、樹氷や件の緊縛師に匹敵するだけの縄を施せるなどとも思っていない。

 それでも。


「上手にできたら、縛らせてあげる」


 仄暗い灯りの下で端正な顔が薄く微笑んだ。漆黒の瞳には間違いなく自分の姿が映っている。


「……かしこまりました。誠心誠意、処理させていただきます」


「うん。いい子だね」


 深く下げた頭がそっと撫でられた。

 

 静一はマンションを後にすると、何度も読み込んだ指南書の内容を思い出しながら自宅へ急いだ。

 玄関をあがり、着替えもせずにガスコンロ下の収納を開く。中には普段使っている片手鍋の他に、買ってみたものの一度も使っていない両手鍋が入っていた。

 すぐさまそれを取りだし、受け取った麻縄と水を入れ火に掛ける。煮え立つ湯が濁り細かなゴミが混じる頃には日付が変わっていた。無理に煽ったビールのせいで眠気は限界に達しているが、まだ投げ出すわけにはいかない。ふらつく視界のなか、鍋を火からおろし流水を注ぐ。

 まだ仄かに熱を持つ縄を固く絞り、室内用の物干しに掛けたところで身体から一気に力が抜けた。


 気がついた時には、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。

 慌てて壁掛け時計を見ると午前五時半を示している。出勤前にシャワーを浴びる時間くらいはあるだろう。安堵した瞬間、また別の不安が込みあげてきた。


 昨夜のことは現実だったのだろうか?


 恐る恐る、時計から物干しへ目を向ける。水気を含んだ緋色の縄はどこか物憂げに銀のポールにかかっていた。自然と穏やかなため息がこぼれる。

 今日は集中して何としても定時で仕事を終わらせよう、と意気込みながら浴室へと向かった。


 しかし、出社早々に集中力を途切れさせる事態が発生した。


「ということで、今日から社内システム部の高山まどか君も、こっちで仕事することになったから」


「どうも」


 経理部長の隣で高山が軽く頭を下げる。

 曰く、昨日起こった経費申請システムの改修が当面の仕事になったらしい。社内システム部でも仕様書や設計書等のデータは閲覧できるそうだが、手書きのメモにも重要な情報が残っているということで、紙の資料が保管されている経理部での作業になったそうだ。


「席は平川君の向かいが空いてるから」


「はい」


「今、メインでシステム管理してるのも平川君だから、気になることがあったら彼に聞いて」


「わかりました」


 再び軽く頭を下げ高山が向かいの席にやってくる。黒縁眼鏡越しに軽く視線が送られた。


「じゃあ、よろしく」


「よろしく、お願いします」


 混乱を気にすることもなく、視線はすぐに画面へと向けられる。

 静一も気にせずに自分の仕事に取りかかろうとしたが、時折訝しげに細められる睫毛の長い目、薄い唇に軽く当てられる骨張った長い指、立ち上がる際にも一切崩れない姿勢、目の前の一挙手一投足がことあるごとに目を奪った。寝不足も相まってなかなか集中することができない。

 不意に、画面越しに目が合った。


「ねえ」


「は、はい」


「何か用?」


「用ってわけではないんですが、何か分からないこととかない、ですか?」


「別に。あったら声かけるから」


「そうですか」


「うん。だから自分の仕事を終わらせて」


 他にやるべきこともあるんだし。

 無表情な顔が言外にそう告げている。

 たしかに月末も近い時期に一円でも狂いが発生すれば、縄の処理に割く時間など簡単に消し飛んでしまう。


「そう、ですよね。すみませんでした」


 軽く頬を叩き、別に、という呟きを聞きながら、静一は画面へ向き直った。


※※※


 定時を三十分ほど過ぎた頃、今日中に終わらせるべき仕事は片付いた。向かいの席はすでに空になっている。どうやら、処理が終わるまでは必要以上に関わるつもりはないようだ。


「あら、今日は置いてかれちゃったんだね」


 突然、鞄を肩に掛けたナオミにからかうような声を掛けられた。


「ええ、まあ。向こうも忙しいかもしれないんで」


「へー。昨日言ってた趣味ってやつで?」


「そうですね……」


 緊縛師だけでなく受け手側にも、日々のストレッチや肌の手入れ等の準備が必要となる。自分の縄を纏うために時間を割く高山の姿を想像すると、腹の奥が軽くざわついた。同時に満足のいく処理ができずに、落胆と憐れみと侮蔑の交じった視線を送る様も思い起こされ胃が締め付けられる。


「そう、だといい気もするような、しないような」


「なにその煮え切らない言い方」


「まあ、色々とあるんですよ」


「ふーん、そう。じゃあ、私はもう帰るけど平川くんも遅くならないうちに帰りなね」


「はい、ありがとうございます」


 軽く手を振る後ろ姿を見送ってから、手早く片付けを終わらせてオフィスを出る。

 急いで帰宅し物干しを確認すると、乾燥機をかけていたこともあって、麻縄は既に乾いていた。表面は毛羽立ち、煮出したときに落ちきらなかった皮などの不純物も混じっている。


 緊縛師によっては、受け手に苦痛を与えるために必要最低限の処理しかしない者もいると何かの本で読んだことがあった。表情の乏しいあの端正な顔が激しい掻痒に悶え乱れる様を見たくないと言えば嘘になる。


 しかし、黒い肌襦袢から覗く白磁の肌に縄痕以外を残して良いとは到底思えない。

 現にあの後ろ手を戒める緋色の翅にも、全身を包む正六角形の連続にも、毛羽立ちなど一切見当たらなかった。


 静一はシャワーを済ませ部屋着に着替えると、姿勢を正して縄の処理にとりかかった。七メートル強の縄を隅々まで見つめ、混ざり込んだ物をピンセットで取り除いていく。些細な擦り傷さえも残さないように。集中しているうちに、不純物は全て取り除き終えた。一通り感触を確かめても、突起のような感触はない。これなら次の工程へ進んでも問題ないだろう。


 重い痛みを感じる目を擦りながら、仕事用の鞄から小さな紙袋を取り出す。中身は最寄り駅の雑貨店で購入した白い手袋と平たいアルミ缶に入った蜜蝋。すぐに手袋をはめ、缶の中身をすくい取り縄に塗り込んでいく。毛羽の残る表面が掌を通過するたび、手袋越しにも軽い痒みに似た刺激を感じた。それでも、その手を止めるわけにはいかない。


「苦痛を与えることも、それによって恨まれることも厭わない」


 眠気を感じはじめた頭の中にいつかのインタビュー記事が蘇る。その苦痛とは処理の甘い縄の摩擦で、肌を汚すことではないはずだ。


 端から端まで蜜蝋を塗りおえると、時刻は深夜零時を回っていた。昼休みに仮眠を取ったこともあり、眠気にはまだ耐えられる。この調子なら今夜中にするべき工程を完遂できるはず。


 あくびをかみ殺しながらキッチンへ移動し、五徳を外したガスコンロで縄を炙る。紅い炎は表面をなめながら毛羽を焼き落としていった。


「うん」


 僅かな凹凸と煤が残るばかりとなった縄を前に、自然と首が縦に振れた。あとは時間の許す限り鞣していけばいい。明日から始めても間に合いはするだろう。それでも、あの動画の緊縛師や細川樹氷の縄を纏った経験がある相手だ。些細な妥協も見逃すはずがない。なにより自分が許せない。


 静一は部屋に戻ると再び手袋をはめ蜜蝋を手にとり、縄を鞣しはじめた。


 シミ一つない滑らかな肌を思いながら、扱き擦りあげ蜜蝋を塗り込める。そうしているうちに、いつの間にか耐えがたい眠気に襲われていた。それでも、おぼつかない足取りで今夜もなんとか縄を物干しにかける。


「うん。いい子だね」


 倒れるように眠りに落ちる間際、薄い微笑みと頭を撫でる手をおぼろげに感じた。

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