桜を嫌いな理由

青いひつじ

第1話

ベランダから見えた桜は、とてもきれいだった。


彼はきっと、桜が嫌いだろう。


桜を見つけるたびに、私のことが頭をよぎっているに違いない。

私の名前に"桜"の字が入っていること。毎年、桜が咲く季節には、2人で花見に出かけたこと。

いつか桜の木の下で、"ずっと一緒にいようね"と話していたことからそう考える。


彼と出会ったのは、大学の入学式だった。多分、高校時代はそうでなかっただろう髪色の男性陣の中に、猫背気味の、スーツに着られた姿が目に留まった。


黒い髪に、黒い縁のメガネをかけて、全身黒色の彼は、めでたい雰囲気とは反対に、ひとり参列者のようだった。大きな木に飲み込まれそうなその人のことが、ずっと頭に残っていた。


大学で時々見かける彼は、友人らしき人物と、よく笑っていた。1人でいる時は、ずっと携帯を見ていた。毎日電車で一緒になる人を気になっていくように、彼がいると、少し嬉しくて、自然と目で追ってしまう自分がいた。


気づいたら恋に落ちていたなんて、ありきたりだけれど、恋とは、本当にそういうものらしかった。2回生になって、告白したのは私からだった。



春には、彼の家から徒歩10分のところにある河川敷でお花見をした。

夏には公園で、線香花火対決をして、寒くなる頃には、お鍋を食べながら一緒に年を越した。バイト終わり、時間が合えば待ち合わせをして、アイスを買って、夜の街を散歩した。

お互いの好きな漫画を交換したり、映画鑑賞会という名のお泊りをした。

大好きな映画のお気に入りのシーン。隣で、私と同じように涙する彼に、心がいっぱいになった。


社会人になって1年目の誕生日プレゼント。

小さなダイヤのネックレスと、キーケースには1つの鍵がぶら下がっていた。

驚いて顔を上げると、"もうすぐ、少し広い部屋に引っ越すんだ。いつでも来ていいから"と、彼は優しく微笑んだ。


私達の生活は、とても普通で、素朴で、私はそんな幸せが好きだった。ずっとずっと、側にあってほしかった。そのためだったら、悲しいことも少しくらい我慢できると、そう思っていた。


しかし、しばらくすると私達の関係は、砂でできた城のように、少しずつ崩れていった。


「ねぇ、ゴミ出してって言わなかったっけ。何度目?」


「ごめん。最近、忙しくて」


「私だって働いてるよ?」


「ごめん。あ、そういえば、明日は会社行くから」


「え。明日?前から温泉行こうって言ってた日だよ」


「ごめん。資料作らないと。来週でもいい?」


きっとこれは、恋人同士でよくあるすれ違いというやつで、こんなことで私達は変わったりしないと、本当にそう思っていた。


誕生日の夜。

私は、コンビニで1人ケーキを買い、冷め切った豪華な料理と一緒にそれをかきこんだ。

なぜか少しだけ、しょっぱい味がした。

1番最初に連絡をくれたのは、お母さんだった。友達からのお祝いメールも、本当は嬉しいはずなのに、心にはポカンと穴があいていた。


深夜1時。私の誕生日は終わってしまった。なかなか帰ってこない彼を、ベットの中で待っていた時、携帯の画面に出てきたある言葉。


"人生は短い。自分のことを大切にしてくれない人とは、早めに縁を切るべきである"


きっかけは、こんな、どこにでも落ちていそうな言葉だった。


そのまま眠ってしまった私。目が覚めて、私に背を向け寝る彼に、どうしようもなく涙が止まらなかった。


こんなに辛いなら、辞めてしまおう。


「私たち、もう別れた方がいいと思う」


彼は下を向いたまま、私が差し出した合鍵を受け取った。やっぱり、引き止めなかった。なんとなくは、分かっていたけれど。



別れて半年ほど経つと、男性の方から連絡が来たりすると友人は言っていたが、私達を繋いでいた糸は完全に切れてしまった。



彼との思い出は、日に日に薄れていった。

お互い、誠心誠意尽くした結果、道の先にあったのが別れだった。

喧嘩したわけでもなく、どちらかが浮気をしたわけでもない。運命だとか、縁だとか、そういった言葉を使うのであれば、私と彼は別れる運命にあって、そこに辿り着くまでに4年かかったというだけの話だ。




"ブーブー"


着信は、会社の後輩からだった。


「なに、休日に」


「あ!せんぱーい!前言ってた合コン、今日の夜とかどうですか?」


「パス。気分じゃないし」


「もー、先輩いつまで引きずってるんですか」


「そーじゃなくて!今はそんな気分じゃないの」


「約束してたのにぃー!」


「またなんか美味しいものでも食べに行こ。それで許して」


私はそう言って、電話を切った。ベランダから見える、遠くの川沿いに並ぶ桜の木がユラユラ揺れている。


「約束かぁ」


ちょうど1年前のこの季節。夜桜を見に行った帰り道だ。



「来年も、一緒に来たいね」


そう言った私に。


「来るんだよ、一緒に。約束」


そう言った彼。



初めて、約束が幸せなことだと知った。

まるで、その人との未来が、手を振って待っているようで。


今、外には、あの日約束した春が舞っている。私は1人でいて、来なかった未来を、少し寂しく思ったりしている。


彼はきっと、桜が嫌いだろう。そして、私も、桜は嫌いだ。


桜の蕾が棚びく夜道、月明かりの中で手を繋ぐ、幸せだった2人を思い出してしまうから。








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