第2話 宦官(かんがん)の誕生

 私は北京で陽物とサヨナラする施術を受けた。大明国の首都である北京城の中央に鎮座する紫禁城、それを取り囲む皇城の北東の坊に宦官を作る場所があるからだ。

 施術自体は凄まじいとしか言えない。最初の三日間は地獄だった。

 斬られた奴の半分近くが死んだ。三日間の絶飲絶食に耐えられず水を飲めば、この世からもサヨナラだ。そんな世界だ。


 が、専門家の先生は口が巧いし、面倒見もいい。何よりためらいがない。切り落とされる男が一瞬でも怯えたら、施術をやめるほどだ。

 私はこの先の良い手本が目の前にいると思ったよ。多謝トゥシェだよ、陽物斬り先生。


 宦官かんがんの体に仕上がるまで数ヶ月から半年、先生の家で過ごす。小まめにトウガラシ湯と胡椒湯で体を拭かれ、忍耐強い私は順調だった。陽物がない体を逞しく保つ方法は先生の家にいる間に会得した。油断すると若さは素早く離れてしまう。髭が抜けて二度と生えないように、筋力が落ちることもある。

 また、子供のうちに施術すると筋力に乏しい体になりやすいという。


 私の周りに仲間がいる。売られた少年や罪人、奴隷のモンゴル族、女真族、安南人などもいる。そして私と同じく自ら望んだ者。


 奴ら宦官志願者の望みは権力と富を貪ること、これに尽きる。ライバルどもの面を拝む。学を積んでいるか、口は達者か、容貌はいかがか、忖度を読む力はどれほどか、また胆力あるや無しや。


 その頃、立て続けに皇帝が変わった。

 私が北京に来た時は永楽帝が崩御したばかりだった。一年も経たず、あと継ぎの洪煕帝が崩御。新たに即位した宣徳帝は内書堂を設立した。それは宦官の学問所で、教師は翰林院大学士。

 これは画期的だ!

 翰林院大学士といえば、行政府六部の各尚書、つまり大臣が兼任する超名誉職、いずれも皇太子の教師を務めるほどの学識があり、正二品の地位を持つ。もちろん科挙では進士クラス。


 内書堂設立には訳があった。


 そもそも大明国をぶっ立てた初代皇帝、洪武帝は冷静で賢明な一面があった。彼は宦官の弊害を熟知していた。かの大唐が滅んだのは宦官が次の皇帝を決めるほどの権力を持ってしまったからだ。


 が、宦官は宮廷の暮らしに必要不可欠。

 そこで洪武帝は宦官に学問不要、宮城の掃除に徹せよと決めた。


 彼は宮城の門に鉄牌を置いた。牌には「内臣不得干預政事、預者斬」すなわち「宦官が政事まつりごとに関与するを禁止ず。関与した者は斬る」と刻まれていた。

 鉄牌は永楽帝が都を南京から北京に移した時に、移設された。祖訓は尊ばれねばならない。


 しかし、皇帝の現実はそれを許さなかった。とにかく皇帝は忙しい。家族は常に大所帯。妻子と孫で百人超えることもある。永楽帝はマジ忙しい皇帝生活を送らざるを得なかった。


 彼のおびただしい業績の一つに皇帝独裁体制強化があった。彼は自分で自分の仕事を増やした。というか、増やし過ぎた。時間も体も常人の数百倍要る、マジで。頭の切れが半端なくても、仕事量ヤバい。マジ、死ぬ。


 そんな皇帝の豪華で煩雑なプライベート空間が紫禁城の内廷だ。夜の営み、宮中行事もろもろ、趣味と寛ぎの時間、そして内廷まで運搬される決裁書類の山。それらは皇帝とその家族に奉仕する宦官組織、二十四衙門にじゅうしがもんが支えていた(まぁ、他に女官六局もあったが)。そこに所属する宦官が文盲で無知蒙昧で効率いいわけがない。第一に皇帝の精神衛生にかかわる問題だ。


 洪武帝も永楽帝も効率を高めるべく、有能な宦官に目を付けた。特に永楽帝は宦官に読書を許した。字が読める読めない、書ける書けないでは世界が違うのだ。


 明建国から約六十年、洪武帝の鉄牌はいまや有名無実だ。


 彼が置いた二十四衙門は、十二監と四司と八局から成る。十二監の最上位は太監と呼ばれる。最も重要な役職が司礼監掌印太監で、のちの私の役職名である。

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