第2話
そうして引っ越してきて、はや一ヶ月の時間が過ぎた。
サボりがちだった荷ほどきをようやく終え、新居での生活にも慣れてきた私は、一人でベランダの手すりに肘をおいて、そこから見える夜の景色を眺めている。季節はすっかり春に変わり、白い道路灯の光に照らされた桜の木に満開の花びらが咲いている。
ここでの暮らしはおおむね良好。
上層階だけあって虫は少ないし、エレベーターもあるから移動も苦じゃない。何より、この景色。自分が以外と夜景好きなんだな、ということを、ここに引っ越してきて初めて知った。
「……」
しかし、慣れてきたとは言ったけど、ひとつだけまだ全然慣れないことがある。
腕時計を見ると、時刻は夜の七時過ぎ。
そろそろかな――と身構えていると、右隣の家の電気がぱっ、とついた。
「……」
帰ってきたのだ――と思って、私はますます身構える。
からからから、と窓ガラスの開く音。
がさがさがさ、とサンダルを履く音。
「……
隣のベランダから、私の名前を呼ぶ声。
「いますよ、先輩」
近所迷惑にならない程度の音量で、私はそう返す。
「だから、先輩、っていうのははやめろよな。もうお互い学生の身分じゃないんだからさ」
「いいじゃないですか。この方がしっくり来るんですよ」
「まったく」
一ヶ月前から続く、もうお馴染みのやり取り。でもぜんぜん慣れない。
『非常時にはここを破って隣戸に避難できます』と記載された薄い板の向こうから、帰ってきたばかりの先輩が顔を出す。やれやれ、と呆れたように笑うその表情。Tシャツにジーンズというラフな格好で現れた先輩は、今、本屋の店員さんとして隣町の店で働いているという。
「今日も疲れたよ」
「お疲れです、先輩」
「そっちもな」
お互い手すりに手を置いて、隣り合うという配置。
こうしていると、まだお互いに高校生だった頃を思い出す。
教室で、窓ガラスの前にある転落防止用の棒に頬杖をついて、同じように隣り合っていた時間のこと。あの頃は放課後になると毎日、わざわざ先輩のいる教室まで歩いていったものだ(だって先輩が下級生の教室に来ると、みんな怖がって逃げてしまうんだもの)。
上級生ばかりがいる空間は少し怖くて、でも、教室で一人つまらなそうにしている先輩の姿を見つけたときは、その分安心することができた記憶。
「まさか、隣に越してきたのが夢子だったなんてな」
「私だって驚きましたよ」
あれからオカダさんは、私のスマホにだけ現れた謎の文字について、わざわざ本部にまで問い合わせて確かめてくれたけど、なんのことはない。その三文字は合っていたのだし、私は立派にその条件を満たしていたのだ。
引っ越してきて二日目の朝のこと。
偶然同じタイミングで家から出てきて、再会して、驚いた先輩の懐かしいその顔を見たとき、私は、『片想い』というその単語も、ずっと隣の部屋から感じていたいい気配の正体も、そのすべてがすとん、と腑に落ちたのだった。
「でも嬉しかったけどな」
先輩はそんなことを言う。
私の心はそれだけで、あの満開の桜のように華やいでしまう。
「こっちに知り合いなんて全然いなかったし、また会えて嬉しかったよ」
「……そう、ですか」
「ていうか、夢子も東京に来てたのなら連絡ぐらいくれればよかったのに」
「そ、それは」
先輩に不満げな顔をされて、私はあわあわと言い淀む。
――片想い、のままにしておくつもりだったんです。
――どうせ女同士の恋なんて叶うはずもないし、余計なことを言って嫌われたら嫌だし、先輩の卒業を期に全部諦めるつもりだったんです。
なんてことを、果たしてどうやってこの人に伝えたらいいんだろうか。
「……」
「……卒業してから全然会うこともなかったし、メッセージを送っても返事もくれなかったから、正直嫌われたのかと思ってた」
「そ、そんなわけないです」
私が先輩を嫌うなんて、そんなのあるわけないじゃないですか――と思わず声が大きくなってしまって、慌てて口を抑える。
先輩はそんな私の様子を笑って見ていた。
「ならいいんだけどさ」
「……」
「……なあ、ところでさ。春の夜って案外冷えるよな」
「……はい?」
「昼間は汗ばむぐらいなのにさ、嫌んなるよな」
「なんの話ですか?」
突然話題を変えられて、私の頭はうまくついていけない。
言われてみれば確かに寒いかもだけど、それは先輩がそんな薄着をしているせいではないのだろうか。
「上着、貸しましょうか?」
「いや、そうじゃなくて、その……もう」
口を尖らせて、ごにょごにょと、何やら言いづらそうにしている。
普段ぶっきらぼうな口調ではっきり物事を言う先輩にしては、珍しい態度。
そういうのは私の役割のはずなのに。
「だから、その、そろそろさ、中に入って話さないかって」
「なか?」
「そう、私の部屋……まあ夢子の部屋でもいいけどさ。そこなら寒さも近所迷惑も気にしないで済むだろって」
「……え」
少し時間を置いてから、先輩の言った言葉が頭に入ってくる。
「せ、先輩の部屋って……いいんですか?」
「そっちが嫌じゃなきゃな」
「嫌なわけ……」
ないですけど――と、今度は私がごにょごにょしてしまう。
ほらでもやっぱり、こっちの方がしっくり来る。
「じゃあ、決まりな。先に言っとくけど散らかってるぞ」
「先輩、鞄の中とかも汚かったですもんね」
「うっせ……じゃあ、鍵開けてくるな」
笑いながら、先輩が自分の部屋に引っ込んでいく。
私もベランダからリビングに戻る。
「……」
どうしよう、思わぬ展開に慌ててしまう。
先輩の部屋――そりゃもちろん、行ってみたいと思ってたけど、まさか向こうから誘ってくれるとは。それもこんなにあっさり。
あわあわと顔が熱くなってきてしまって、もう大人なのに
頬とか赤くなっていないだろうか。いつもみたいに薄暗いベランダ越しに会うのではなく、電気のついた明るい部屋で相対するのだ。どうしよう、着替えとか、化粧とかした方がいいだろうか。でもそんなの大袈裟な気がする。それにあんまり待たせるのも……
「……」
そんなことをごにょごにょと考えながら、窓ガラスを閉めて振り向くと、私の目の前には、引っ越してきたばかりの新しい部屋が広がっていた。
新しい壁に、新しい床に、新しい電気に、新しい扉に、新しい隣人――
「……片想いのままにしておくつもりだったのにな」
そんなことを声に出して呟いてみる。
声は部屋の中を漂って、春の夜の重たい空気に溶けていった。この家の壁は厚い。こんな独り言が隣の人に聞こえてくれるなんてことはないだろう。
伝えたいのなら伝えないといけない。
当たり前のこと過ぎて笑ってしまう。高校生だった頃からなにも進歩してないな、私は。
「……」
今度こそ、先輩にちゃんと言えるだろうか。
頭に浮かぶそんな疑問に、どうせ無理だろうな――と思う自分がいる。
どうせ私は今度も勇気を出さず、「一番の友達でいられればいい」、なんて誤魔化して、そして先輩に恋人ができたりして傷ついたりするんだろう。
私の臆病さについては、私が一番よく知っている。
「……」
でももし、仮の話、万が一。
この想いが叶うようなことがあれば、その時は、この家を出ていかなければならないだろう。だって入居条件が『片想い』、なのだから。
もしそうなったら、今度は先輩と一緒に新しい家を探したいなあ――
なんて、あまりに能天気過ぎる想像だと思うけど。
だけどそう願ってしまう私も、確かにここにいるのだった。
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