入居条件 『片想い』

きつね月

第1話


 引っ越しをすることになった。

 今住んでいるアパートが建て替えられることになったのだ。

 大学生時代から社会人五年目の現在まで住みつづけているアパートなので、愛着はあるし、引っ越し作業は実に面倒なのだけれど、まあ仕方ない。


 ということで新居を探すべく、こうして休日に家の内見に来ているという次第。


「ここ、いいですね。日当たりもいいし、壁も厚そう」


 家具もなにもないまっさらな部屋の、ベランダに続く窓ガラスを開きながら私が言うと、案内をしてくれている不動産屋のお姉さん(オカダさんという名前、笑顔が元気)がどや顔で「そうでしょう」、と返してきた。


「ここは自信をもってお薦めできる物件ですよ」

「……さっき見たところは、床に干からびたGが落ちてましたからね」

「あ、あれは本当に申し訳ありませんでした」

「いえいえ」


 靴を履いてベランダに出ながら言うと、オカダさんはしゅん、と細くなりながら謝ってきた。リアクションがいちいちオーバー気味なところはあるけど、まあ、話しやすい人でよかった。 


 しかし今時、家を借りるためにわざわざこんな風に現地まで赴く必要はない。ちょっと賃貸サイトを覗けばその家の詳しい設備が事細かに載せられているし、3D画像で内装まで確認できてしまう。

 

 のだけど、でも何件かまで候補を絞った最後は、やっぱり自分の目で確かめたいと思う。

 それは例えば、隣の部屋の玄関やベランダにゴミが散乱していたり、とか、大家さんがどれ程熱心にその家を管理しているか、とか、そういう情報は現地に行かないとわからないものだからだ。

 それに、こうしていろんな家を見て回って、いろんな自分の生活を想像してみるのは楽しい。例え悪いところを見つけたって(床に虫の死骸が散らばっているとか)、自分が住むわけではないなら気楽なものだ。

 同僚には「知らない不動産会社の人と喋らなきゃならないのが嫌」、と言って通勤に二時間もかかる家から頑なに引っ越さない人もいるけど、私はそこまで気にしなかった。


「でもここはいい物件ですね、ほんとに」


 私たちが今見学しているのは、郊外に建てられた四階建てのマンション。その最上階の部屋。

 窓からの景色は気持ちがいいし、内装も設備も綺麗だ。床や壁の感触も、鉄筋コンクリートらしくどっしりとしている。家賃は少し高めだけど、まあ払えないほどではない。

 隣の部屋のベランダは整理されているし、それになんだかうまく言えないけど、私から見て右隣の、そのベランダ(というよりも隣の部屋そのもの)から、が漂っているような気がしている。

 いい気配って、具体的に何なのよって聞かれると、その、なんかうまく言えないけど。強いて言葉にするなら、新しい季節の訪れを感じたときのワクワクするような、少し焦ってしまうような、そんな感じなんだろうか。


 いや、はっきりとはわからないけども。


 でもそんな曖昧とした感覚を抜きにしても、この家は良い物件だと思った。


「ここにしようかなあ……」

「即決しなくても大丈夫ですよー。少しぐらいは抑えておけますので」

「うーん」


 それはありがたい提案だけど、私の心はすでに九割九部決まっていた。

 大学に入学して一人暮らしを始めたときを含めて、何度か家の内見というものを経験しているけれど、これほどまでに惹かれたのは初めてのことだった。

 ただひとつ、気になるところといえば、


「あの、これなんですけど」


 そう言って私は、オカダさんに自分のスマホの画面を見せる。

 画面に映っているのは、賃貸サイトに載っているこの物件の情報。その入居条件の部分。


「あれ、なんだろう。これ……」


 オカダさんが目を丸くする。

 驚くのも無理はない。『保証人不要』とか『即入居可』とか、そういう条件が記されているその最後に、


 ――『片想い』


 という三文字が書かれているのだ。

 慌ててオカダさんが自分のスマホを開いて同じページを確認する。

 そうして首をかしげる。

 見せてもらうと、オカダさんの画面にはそんなものは書かれていなかった(ちなみに印刷してもらった紙の資料にも書かれていない)。


「な、なんでしょう、ごめんなさい、ちょっとわかりません」

「ですよねえ」


 二人して頭の上にハテナマークを浮かべる。

 ベランダには真冬のときほど冷たくなくなってきたそよ風が吹いていて、どこからか子供の遊ぶ声も聞こえていた。


「……どうしましょうか、やめときます?ここ」

「……いえ」


 まあ、私の画面にだけ表示されていることを考えると、端末のバグかなにかだろう。思えばこのスマホも長いこと使っているし、そろそろ換え時なのかもしれない――と、私はあまり気にしないことにした。

 それほどまでにこの家のことが気に入っていたし、それに、『片想い』という単語。それにはまったく心当たりがないわけでもなかった。


 ……というよりも、まあ、その、本音を言えば、その三文字がどうしても気になってしまって、この物件を内見の候補に入れたのだったし。

 

「ここにしておきます。気に入ったし」

「わかりました。では一度お店に戻りましょうか」

「はい」


 そうして私は、別にぜんぜん気にしないまでも、でもほんのちょっとだけ、冬の風に混じった桜の気配のごとく0.1パーセントぐらいの期待を込めて、この家に引っ越すことを決めたのだった。


 なにかいいことが起きてくれればいいなあ――

 

 なんて、ずいぶん淡い期待なんだけど。




 

 

 

 

 

 

 

 


 

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