二.

「僕が全寮制の高校の出身の出だってことは知ってるよね」


「ああ、知っているよ」


 私はうなずいた。彼は全寮制の高校というかなり奇特な環境で青春時代を送っていた。朝5時半起床、夜22時消灯という、普通の進学校に通っていた私が聞いたら目を回しそうな環境で生きていた。彼の昭和風な印象はそんな、令和の現代にありそうもない特殊性から来たものなのだと勝手に考察していた。


「単純に生活習慣がそれだし、ゲームも漫画も携帯電話も禁止。その状態で赤の他人と24時間過ごさないといけないところで3年暮らしてきた。入学してから最初の一年間は先輩に面倒を見てもらって、寮の暮らしを学んだり、生活習慣を整えたりするために時間を使う。すると人間不思議なもので、1年いれば慣れてきて後輩の面倒を見たりする余裕が出てくる。高校2年になるとひとつ上の先輩を手伝って寮の運営に携わる。そして高校3年のときに、寮の部屋長になったんだ。」


「部屋長?」


「ああ、部屋長っていうのはね……部屋の責任を担う人のことだよ。寮は中学1年生から高校3年生までが一緒に住んでるからね。上級生は下級生の面倒を見ないといけないし、同じ部屋の後輩は特に目をかけてやる必要があってね。だから僕は同部屋の後輩の面倒をみてやらないといけなかった。同部屋の先生が組み合わせを決めるんだけど、それがまあ、ちょっとした祭りのような感じでね。嫌いな先輩だったり生意気な後輩だったりと同部屋になると一年間苦労するだろ。だからみんな、部屋の発表は気が気ではなかった。それで私は山崎という、当時中学二年生だった男の子と同部屋になったんだ。本当はもう一人いて3人部屋だったんだけど、そいつは4月早々に身体を壊して寮からいなくなってしまった。だから僕は後輩と二人きりだったんだ。」


「なるほど」


 私は自然と彼の話に聞き入っていた。前に趣味で小説を書いていると聞いたことがあったが、彼の口ぶりは語っているというよりは書いているようだった。彼が体験した世界をそのまま映し出すように、口ぶりが私を飲み込んでいく。


「後輩のことは少し覚えていてね。引っ込み思案で、暴れん坊な連中が多いウチの学校の交友関係からは一歩引いたところにいるらしい。外に出て身体を動かして遊ぶというよりは教室の中で黙々と本を読んだり、その日に受けた授業の復習をしたりするような生徒だった。端的に言えば学校生活が楽しそうではなかったんだ。先生もこのことを心配して、わざわざ私を個別に呼び出して『彼の居場所になってやってくれ』って言ったんだよ。

 でも、居場所になるったって、何をしたらいいかなんてまるで分からない。結局4月が終わって5月になり、6月になっても私は具体的に彼に何かをしてあげることはなかった。……これが普通だったら、一緒にトランプをやってみるとか、好きな話題を振って上げるとか、考えようがあったと思うんだけどね。当時は不思議とそういったことが思いつかなかった。僕はただ淡々と、寝起きを一緒にしたり、ご飯を一緒にしたりしていただけだったんだ。

 彼はそれが嬉しかったみたいでね。段々と、色々なことを話してくれるようになった。流行りの音楽とか、ドラマのこととか。僕はドラマなんて休みに家に帰っても見やしないし、家だとクラシックばかり流れていたから流行りの歌も全然知らなくてね……。だから面白かったよ。今僕が君たちの話題についていけるのは、彼に教えてもらったからなんだ。」


 流行りの歌、という古めかしい言葉を使って彼はそう語った。元々、なんとなく世間に関心の薄い人間であることは感じていたが、それにしては流行りの知識に深いことが不思議だった。


 私は彼が大学で得ていた元通りの彼に戻り始めていることに気が付いた。あくまで落ち着いた口ぶりである。言葉遣いそのものは現代人のそれなのに、古めかしさを感じさせる。それは彼が病床にあっても全く同じであった。


「なるほどね、でも良かったじゃないか。その子にとっての居場所になってほしいという先生からのお願いも叶えられたんじゃないか」


 私はそう返した。私は、そう言うと彼が喜ぶのではないかと思った。相変わらず膨れた頬と目が私を常に心配させている。ところが彼は、私の言葉を聞くと顔を少し曇らせてしまった。


「分からないよ。僕は彼みたいに深く考えるような性格じゃない。ただ全寮制の高校に入る奴なんて、大体は何かしらを抱えてる。家庭がおかしかったり、学校でいじめられておかしくなったり、そもそも自分自身がおかしかったりするもんだ。僕も、彼も、各々抱えて、ほかに行くところが無くなってしまって、仕方なしに入寮したんだ。人間一人が四六時中一緒にいたところで、どうにかなるようなもんじゃないよ。そういった各々の事情は、僕みたいな楽天的な人間より、引っ込み思案で、すべての物事に真摯に関わる人間にこそ深く突き刺さる。彼は僕よりも、よっぽど真っすぐだったからね。その内側なんて想像できるはずもないし、そもそも探らないのが倫理だと思ってたんだ。」


 彼は倫理、という言葉を使った。私は自分にコントロールできないところに無暗矢鱈に関心を持つべきではないというのは、一つの価値観として理解することができた。


「でもある日から、それが変わったんだ。夏休みが終わって、秋の頃かな。秋と言ってもその日は夜がやたらと蒸し暑くなって、僕はなかなか眠ることができなかった。そのまま寝たり起きたりを繰り返してたんだけど、彼も良く寝られなかったみたいなんだ。布団から起きて、ぼんやりとベッドの脇に腰かけてた。


『眠れない?』


 僕が尋ねるとうん、と彼はうなずいた。そのまましばらく彼はぼうっとベッドに座ってたけど、


『ねえ、そっち行ってもいい?』


 って言って、彼は僕の布団の中に入ってきた。眠れないから不安になったのかなと思ってね。普通は余りやらないだろうけど、まあいいかなと思って、入れてやることにした。

 彼はただ何も話さずに、布団の中で僕とは反対側に顔を向けて横になった。近いから大きく感じられるはずなのに、なぜか小さいなと思った。彼はただ自分の布団の中で横になってるだけなのに、なぜか、これが彼の精一杯なような気がしてきた。

それで、なんとなく、後ろから抱きしめてやったんだ。最初は嫌がられるんじゃないかって思ったけど、受け入れてくれた。月明りが窓から差し込んで彼の背中をよく映し出した。今でもよく覚えてるよ。寝巻替わりのジャージ越しから、まだ子供らしさを十分に残した肩甲骨とか背骨とかが分かった。4歳ぐらいしか変わらないはずなのに、彼は僕よりもずっと小さかった。その背中越しに呼吸する音とか、心臓が動いて血が体中をめぐっていく音とか、そういったのが僕の耳や眼をいっぱいにした。

 そうしたら、何だか僕のほうが落ち着いてきてね。最初は向こうが眠れないって言ってきたはずなのに、不思議だよね。気が付いたら僕は彼を抱きしめたまま寝てしまって、そのまま朝になってた……起きても、僕はこれが何か特別なことだとは考えてなかった。彼と生活していたら、これくらい当たり前の、ごく普通のことだと思ってたんだ。

 それ以来、彼は頻繁に寝ようって言うようになってきた。断る理由もないし、僕も応じたよ。どうしてまたこの子は寝ようとするんだろうって思いながらね。でもいざ一緒に寝て彼の体温を感じるのはなんとなく悪い気がしなかった。」


 私は聞いていて、内心激しく困惑した。また、彼の古めかしい印象がはがれていくのを感じた。窓の外は日が暮れようとしているところで、窓越しに橙色の夕日が彼の頬を照らした。妙に落ち着きがあり、多少のことでは全く動じないという評判の彼と、今こうして私に自分の体験を恐る恐る、おびえているのではないかとすら感じさせる丸まった目の前の人間は、全く同じ存在のはずだった。私は、遂に彼が今見せているこの姿が、正真正銘、彼のもう一面であることを、認めざるを得なかった。


「でも、僕らの関係は別に先輩と後輩のそれではなかった。僕は特に言葉を使って勉強を教えたり、立ち振る舞いを教えたりといったことはしなかったから、周りから見て褒められたものではなかったんだ。ただ先生は『居場所になってほしい』という話を、僕が素直に受け入れたように見えたのかな。咎められるようなことは何もなかったよ。秋が深まって冬に差し掛かると、僕らはますます寝床を一緒にするようになった。古い寮で暖房の利きがとにかく悪くて、厚い布団をしてまだ少し寒かった。

その中で体温の高い彼はとても暖かかった。僕は受験の時期だったから、夜遅くまで部屋に戻れないこともしょっちゅうだった。でも部屋に帰ると、彼は僕の布団の中で待ってくれているんだ。打ちっぱなしの無骨な建物と古くて使いつぶされたベッドはとにかく心細いものだったけれど、布団の中だけはそうじゃなかった。暖かくて、とても落ち着くことができた。何か話をするようなことも少なかったし、ただ一緒の布団の中に入っているだけだったけれど、僕は満足だった。布団の中で、僕は幼さが残った腕とそれを取り巻く筋肉が呼吸に合わせて動いたりするのを感じたり、鼓動を感じようとして耳を背中に合わせてみたりした。

こんなの、普通の先輩と後輩の関係でもないし、友人同士の関係でもないよね。……でもその当時は、人間という生き物は、そういうことを他人とやって普通だと思ってたんだ。だって自分にとって大切だと思う人を、抱きしめてやるのは普通のことだろう?

 それでも、僕の何が彼にとって良かったのか、わからずじまいだったんだ。何って……僕は彼に何かしてあげた記憶がないんだよ。僕の同級生たちはそれぞれの部屋の中でもっと先輩然とした感じでね。後輩が悪さをしたときは雷を落としたり、勉強を教えてやったり、何かと世話を焼いていた。でも僕はそういったことを彼にする気にはあまりなれなくてね。

 そのまま卒業式の日になって、彼は僕に『いろいろと助けてもらってありがとう、いなくても頑張るよ』って言った。そのまま退寮して、引っ越して、大学に入って、忙しい日々の中で段々と彼が薄まっていった。

 たまに彼のことを思い出すことがあっても、僕は結局、なんで懐かれたのかが全く理解できなかった。別に何か一緒に遊んだわけでもないし、勉強を教えてやったわけでもない。ただ他の寮生と同じように、一緒に寝起きして、朝ご飯を食べて、学校に行って帰ってきて、またご飯を食べて、寝ただけ。僕は一度も彼から深刻な相談を受けるようなことはなかったし、僕から何かを特別に話すこともなかった。だから不思議だな、結局なんだったんだろうな、くらいに思ってたんだ。

 ただ一昨日、これから秋の講義が始まるって肝心のタイミングで僕が風邪を引いて、頭がぐらぐらしたり咳がしょっちゅう出たりするようになって、またはっきりと思い出したのが彼だった。」


 私は、段々と彼の言葉が端的なものになっていることに気が付いた。もっと回りくどい、暗喩的な物言いをする人間だったが、飾るものが全て無くなって、無骨に、単純に彼は語っていた。それでいて、彼はあくまで、自分が体験したはずの出来事を他人事かのように扱っていた。まるでどこかで聞いてきた笑い話を話すように、彼は自分のことを罵った。


「彼の温度を求めていたのは僕だったんだ。僕は彼を支えてやれと頼まれて、実際にそれをしたつもりになってたけど、実際は僕が彼に執着してただけだった。それも、ただ執着していただけで、別に彼に何をしてほしいとか、こうあってほしいとか、そういったことは一切考えなかった。朝一緒に起きて、一緒にご飯食べて、一緒に勉強して……それだけでよかったんだ。

 大学に入ってから、僕の身の回りから彼がいなくなった。夜寝るときに一人になった。一人になって、僕の寝床から体温が無くなったことに気が付いた。そのことは少し気にはなったけど、喚いたところでどうにかなる話でもないからそのままにしておいたよ。大学の講義や授業も忙しかったから、考える余裕もなかったしね。

 でも風邪を引いて、暇になって、布団に入っているしかなくなったら、もう彼のことを考えないわけにはいかなかった。そこに人がいて欲しい時に彼がいない、体温が欲しい時に体温がない……。こんなに寂しいものなんだって思った。

いろいろと回りくどい話をしたね。結局、僕はただ自分がたまたま風邪をひいたときに彼のことを思い出して、会えないのが寂しくて泣いてただけだ。深い事情があるわけでもなく、裏に何か高尚な哲学があるわけでもない。ただただ、それだけの話なんだ。」


 彼は微笑みながら、赤くなった眼をこちらに向けた。私は驚きを隠すことができなかった。寂しいとか、悲しいとか、そういった感情からは無縁の存在だと思っていた。目の前にいる男は、この瞬間、ただの小さなどこにでもいる少年であった。


「この単純さ……あまりにも単純すぎるんだ。ある高校で後輩と出会った青年一人が卒業して大学に進学して、風邪をひいてたまたま思い出して泣いているだけで、他に形容のしようもない。どうせこの寂しさすら、風邪が治ってまた大学に行くようになったら、通学とか講義とか日々の食事とか家事とかに全て流されて、ケロリと忘れてしまうに決まってるんだ。今、僕は彼が寮で一人きりになって、寂しい思いをしていやしないか想像できるけど、それすらも一週間後には想像もできなくなってるに違いない。だからもう、前を思い出せる間に、泣くだけ泣いて、気を晴らすぐらいしかないんだなって思ってたんだ。

 これで僕の話は終わり。ほかの大学の連中にはくれぐれも話さないでくれよ。せっかく来てくれて、興味まで持ってくれたから君に話してあげたけど、こんな下らない、なんの落ちもない話、本当は他人にするべきじゃないんだ。」


 話し終わって、彼はふいと窓のほうを見つめた。外は既に日の入りを迎え、向かい側の雑居ビルの灯りが良く目立っている。私もなんとなく、窓のほうを見た。窓ガラス越しに彼の顔が何となく理解できた。既に私は、大学で見た彼の古めかしい印象がはっきり崩れ落ちているのを感じた。少しの刺激を加えただけで折れそうな、弱弱しい青年の姿があった。


「その子、元気にしてるといいね」


 私は毒にも薬にもならないようなことを言っていると感じながら、何とか絞り出したものを発音した。彼はそれを聞いて少しだけ微笑みながら、


「上手くやってるといいけどね。ただあの寮は、彼にとっては少し辛い場所だったのかもしれない。僕は彼と一緒に過ごすことはできたけど、上手くやる術を仕込むとか、勉強の仕方を教えてやるとかはなかったからね。」


 と言った。そして私たちは無言になった。時折、近くの通りを車が通りすぎるエンジン音がするばかりである。ただ、このまま帰る気にもなれなかった。もし私がここで帰ってしまったら、彼はまた泣き出してしまうのだと思った。それをこの青年にこれ以上体験させるのは、私自身が持つ倫理観に照らし合わせても、彼に対する情に照らし合わせても、あってはならないことだった。

 

「ねえ、ちょっと、こっちに来て、そこに座ってよ」


 しばらくの静寂の後、布団の中で寝ている彼がそう言った。少年の顔立ちをしていた。


「頼むよ」


 私が何も言わずにいると、彼はさらにそう続けて、私が来ている洋服の裾をつまんで引張った。風邪を引いて弱弱しい手つきだった。私は彼の言う通りにせざるを得ず、彼が寝ているベッドに腰かけた。すると、彼は私の背中側から手を回して、そのまま私を布団に寝かせた。


「ごめん」


 とだけ彼は言った。私はやはり無言だった。

背中越しに私は彼の体温を感じた。熱が下がっておらず、まだ子供の用に質素で生活感のない部屋の中で、唯一彼から感じる体温と皺ができた布団だけが有機的なものであった。私は彼が満足して眠るまで、そこから離れることができなかった。


 二日後、彼は大学に姿を現し、友人らに心配をかけてすまなかったという旨のことを言って回った。私はなんとなく彼に話しかけ辛くて遠巻きに見つめていただけだったが、飾り気のない服を着て友人らと落ち着いた調子で会話をする姿は古めかしい印象そのもので、私に見せた姿とはほとんど別人だった。

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