寄宿舎にて

四宮 式

一.

 あれは、まだ私が学生の時分の頃のことだ。


 それまで私は人間関係に執着するような質ではないと思っていたのだが、大学一年の春からの付き合いであった友人がいきなり学校へ来なくなったことには少々引っ掛かった。2ヶ月にもわたる長い夏休みが終わり、夏の厳しさも和らいで久しくなった新学期の10月、彼は必修科目であるはずの講義に姿を現さなかった。その際はまあ、よくあるサボりなのだろうと思い込んでいたのだが、1日経っても2日経っても、彼が大学に姿を現すことはなかった。


 SNSを使って彼に連絡を取ろうとしてみたが、返信はおろか、既読の文字すらもつかない。周りの連中に聞いてみても、新学期に入ってから彼の姿を見たものはいないという。


 私は彼が住んでいるアパートにまで行ってみることにした。ところがインターホンを鳴らしても何も反応がない。ダメ元で電話をかけてみると、それまでずっと出やしなかったのに、

 

 「開いてるから、入っていいよ」


 とだけ言って、そのまま電話を切ってしまった。心配してきてやったのに随分とぶっきらぼうな物言いだなと思ったが、電話口の彼の声が少し弱々しさを感じたので、素直に従うことにした。


 以前にも入った彼の六畳一間は、相変わらず質素そのものだった。綺麗に片付いているが必要最低限のもの以外は何もなく、大学生の一人暮らしの部屋にありがちなタレントのポスターとか、漫画本ばかりある書棚とかといったものは一切なく、簡素な勉強机とベッドがあるだけで、あまり生活感というものを感じさせることはなかった。毛布も柄無しの紺色という単純なものだった。


 その中でベッドの中に入っている彼だけが複雑な感触を得ていた。顔は赤く上気していて明らかに風邪を引いた顔つきになっている。ただ眼が真っ赤に充血し、水分をたっぷりと抱えていた。


「何かあったのか。」


 と私は聞いた。私はそもそも、彼が、何かしら精神が危うい状態になっていたのではないかと考えていた。大学生の精神が悪くなると、誰にも相談できずに一人で落第するにまで追い込まれることがよくあると、人伝手に聞いていたからである。


「風邪を引いたんだよ。」


 そう彼は答えた。だが、その答え方に少し私は違和感を覚えた。彼は本来どちらかというと大人びた……というよりは、古ぼけた顔という表現が正しかった。友人の間でも彼は昭和の顔をしていると評された。そういった無骨な顔立ちは現代においてはどちらかというとプラスよりマイナスのほうが大きいだろうと皆が思っていたから、彼は若し100年前に生まれて居たらさぞ女に引っ張りだこであったに違いない、と言ってよくからかっていた。


 不思議なことに、今の彼からはそんな無骨な感触は全く得られなかった。頬は発熱と泣き腫らしたことが原因で赤く膨らんで、そこから体温の高さを読み取ることができた。目には水分が溜まっており、湿って長く伸びたまつ毛からは女性性すら感じた。


「お前、本当に風邪を引いただけなのか。」


 彼のことが気になった私はさらに続けた。いくら風邪を引いたとはいえ、少し心細くなった程度で18、19の青年が一人でさめざめと涙を流すなど到底考えられるはずもなかった。


「そうだよ。」


 彼はそう言って私のことを見た。いつも低い声が、風邪が原因でさらに濁っているはずなのに、私は彼が段々と年端もいかない少年のように感じられた。私の顔が納得していないことを見たのか、彼はさらに続けた。


「別に大したことじゃないよ。風邪をひくと、昔の変なことを思い出したりするだろ。誰かが偶に話しかけてくれるだけでもやわらいだりするもんだけど、一人暮らしをしていると、看病なんて誰も来てくれやしない。だから、いっそのこと思いだすだけ思い出すことにしたんだ。」


 そう言う彼の顔は、安堵感と寂しさが混ざりこんだ、不思議な表情をしていた。ちょうど迷子が保護されて、母親が迎えにやってきたときに見せる表情だと思った。


「そうか」


「風邪自体は直ぐ治ると思うよ。明日は土曜日だろ。今日で2日目だから、どれだけ長引いたとしても明日と日曜日があれば治る。既に熱も下がりつつあるしね。元気になったら、また学校に行くさ」


 彼はそう言って、ゆっくりと身体を起こした。薄いシャツの袖から、色白であまり筋肉のついていない肌がのぞいていた。私はますます大学で抱いていた昭和の人間という印象が崩れて行ってしまった。そのまま彼は来てくれてありがとう、うつると良くないから早くお帰り、と私を返そうとする。だが赤い眼とふくれた頬を見ると、あくまでそれは彼が私を気遣ってのことであり、本当は帰ってほしくないのだということがすぐに分かった。


 それに、私は純粋に彼が思い出していた話のことが気になっていた。風邪を引いただけでは彼がそこまで弱弱しくなることは考えられなかった。きっと、彼が思い起こした記憶そのものが、彼をそこまでの姿にさせたのであった。


「まあ、帰るのは構わんが、良かったら思い出話を聞かせてくれないか?話したら少し楽になるかもしれないし、俺も興味があるんだ」


 だから私はそう言って、彼がいつも座っているであろう椅子に座ることにした。彼は一瞬躊躇ったが、すぐにほっこりと微笑むと、じゃあ折角だし甘えようかなと言い、ゆっくりと語り出した。

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