第13話「気晴らしに」

 その日の朝食は、クロエの大好きなチーズのオムレツでした。

 でも、少女はそれを少しも美味しいとは思えませんでした。

 いま、目の前にはハチミツ入りのホットミルクが入ったカップがあります。

 ミルクの中で溶けようとして、ぐるぐると回る琥珀色のハチミツを、少女はただただ見つめます。


 キッチンで洗い物をする女性主人アークエットさんが言います。


「クロエ、どうしたの? 今日は元気がないわね」


 少女は背中を丸めながら、つぶやくように言います。


「そのね……調査が納得のいかないかたちで終わっちゃって……」


 なくしたブローチのことは、話しません。話せるわけがありません。


「まあ、もの事はうまくいくこともあれば、思うようにいかないことだらけ、ってときもあるのものよ」


「そうね……」


 ミルクのハチミツは溶けきりましたが、カップに手が伸びようとしません。


 アークエットさんが言います。


「ねえ、クロエ。今日は蒸気自動車の発表会の日よ。あなたが、自動車や社交に興味がないのはわかっているけど、気分転換に行ってみたらどう? 気楽な気持ちで」


 クロエは思います。


 蒸気自動車の発表会か……。このまま下宿でだらだらとして、嫌な気持ちに浸っているのもよくないわよね。どこかにでかけて、頭から嫌なことを追い払うのもいいかも知れないわね……。


 少女は、発表会に行くことにしました。





 国王が住む宮殿の正面に、その大公園はあります。オークの樹やブナの樹が、その地を守るかのように公園を囲んでいます。

 公園の地面は、周辺の樹木が生えている芝生以外は、質のいいレンガが敷き詰められています。レンガは赤茶色のものが多いですが、灰色、黒、橙色のものなども混じっていて、全体的に見ていてあきないカラフルさがあります。


 クロエ・ガーネットは、いま、大公園の入口を通ったところです。

 そこは、人々で溢れかえっています。クロエは社交界に行ったことはないですが、きっとこのような感じなんだろうな、と思いました。

 クリームのようになめらかできらびやかなサテンのドレスを着た女性たちと、煙突のように高い山高帽を被った紳士たちが、楽し気に話しています。

 ぎっちり締ったバッスルで見事なラインを放つ淑女たちが、談笑しています。

 スリムなステッキを持ち、見事な刺繍が施されたベストを着て、さらにその上に品性あふれるチェスターコートをまとう男性たちは、仲間内であれやこれやを話しています。最近の国内情勢のこと、株式の低下のこと、土地の値上がり、値下がりなどについてでも語り合っているのでしょうか? 

 クジャク、コハクチョウ、ハリオシギなど、様々な鳥の羽が飾られた可憐な帽子を被り、優雅な足取りで公園内を行きかう淑女たちもたくさんいました。


 華々しき人々が、星の数ほどにも行きかう、その大公園の中で、クロエはいつものブラウスと地味なスカートといったいでたちでした。自分が、とても場違いな格好をしていると思うと、なんだか恥ずかしい気持ちにもなりました。


 屋台もたくさんありました。水揚げされて間もない、鮮度抜群の牡蠣を食べさせる屋台。一般家庭ではまず使われることのない上質なクリームチーズと芳醇なヨーグルト、そして香ばしいスポンジケーキがやわらかに混ぜられ、その上に新鮮なイチゴを乗せたトライフルを売る屋台。淑女向けの煌びやかな扇子を売る屋台もあります。一番人気の店は、ワインの中に、何種類もの刻まれた果物がこれでもかと入れられているサングリアの屋台です。


 絢爛たるその大公園で、クロエは人々を縫うようにして進んでいきます。

 

 少女が歩いていると、後ろから声が聞こえました。


「やあ、お嬢さん」


 クロエは、自分にかけられた声だとは思わず、そのまま先に進みます。


 軽く肩を叩かれました。


「お嬢さん」


 クロエは振り返ります。

 

 肩を叩いて声をかけてきたのは、スリムで背の高い男性でした。

 上質なシルクハットを被り、ユリの刺繍が施されたベストを着た、紳士です。

 歳の程は20代前半といったところでしょうか。

 綺麗に髭の剃られた顔は整っていて、瞳はとても知性的でした。

 クロエは、ハンサムな男性だな、と思いました。

 ハンサムな紳士が言います。


「おひとりかい?」


 クロエは答えます。


「はい。ひとりです」


 ハンサムな紳士はシルクハットを脱ぎ、それを胸元によせて深々と頭をさげます。


「ぼくの名はジャクソン。よかったら一緒に歩かないかい?」


 クロエは、こういうときどうしていいのか、まったくわかりません。

 少女はぎこちなく言います。


「え……えっと、その、急いでるんで、結構です」


 ジャクソン紳士は、砂粒ほども嫌な顔をせず、穏やかな笑顔で言います。


「これはこれは失礼したね。もし、用事が済んで、ぼくと歩く気になってくれたら、是非声をかけてほしいな。このへんをうろうろしているから」


「え…ええ」


「ではでは、また会えることを祈って。ごきげんよう」


 ジャクソン紳士は、人込みのなかへ進んでいきました。


 クロエはしばらく紳士の背中を見つめていましたが、やがて、公園中央の方へ向きをかえ、もくもくと進んでいきます。


 大公園中央部は、ロープが張られて人々が中に入れないようになっていました。

 長々と張り巡らされたロープの内側中央部に、大きな横断幕が掲げられています。横断幕には〝ド・ディオン・ブートン社の新型蒸気機関自動、モデルC〟と書かれていました。

 横断幕のまわりには、ド・ディオン・ブートン社の社員と思われる人々が、十数人いました。社員の人たちは、スリーピーススーツを着た男性が半分、茶色の作業服を着た男性たちが半分といった具合です。


 横断幕と社員たちの両わきに、特大のテントがありました。

 クロエは、あのテントのどちらかに蒸気自動車・モデルCが隠れているのだろうなと思いました。 

 ロープの外側には、もうかなりの数の見物人が待機しており、みんな、発表はまだかと胸をそわそわさせているような様子です。

 

 横断幕の真下にいた灰色のシルクハットをかぶった社員が、前へ進み出てきました。

 シルクハットの社員は、ロープにある程度近づいたところで止まりました。


 シルクハットの社員が大きな声で言います。


「えー、みなさん、本日は我がド・ディオン・ブートン社の最新蒸気自動車、モデルCの発表会にお越しいただき誠にありがとうございます」


 ざわついていた見物人たちは、一気に口を閉じました。


 社員が続けます。


「タイプCは、未燃炭素の排出量が少ない燃料バーナーを備えている、始動までの時間を大きく短縮できる自動急速燃焼ボイラーを備えている、などなど様々な特徴がありますが、そう言った技術的詳細は、後ほどお話しましょう。まずは、モデルCの走行実演をご覧ください!」


 横断幕、左側のテントに結わえられたロープを作業服の社員がひっぱり、テントの前部が開かれました。

 テントの内側から、がらんごろんという機械音が発せられます。

 タイプCがテントから出てきました。

 クロエはそれを凝視します。

 4つの車輪がついたその自動車は、いままでに見たことがない外見をもった乗り物だとクロエは思いました。なんというか、機関車の最前部だけを小さく凝縮した、といった感じです。

 まず最前部のシートに3人の社員が座っています。3人の誰かがハンドルを握っている様子はありません。車体中央にもシートがあり、スーツにコートといった紳士的な格好をしたふたりの社員が座っています。最後部には、立ち席があり、そこに制帽をかぶった男性がひとり立っています。制帽の男性は、左手で何かのレバーを前後させたり、右手でもやはりなにかのレバーを左右に動かしたりしています。運転しているのはこの男性なのでしょう。

 

 モデルCは、朝の道路の馬車よりも少し速いくらいの速度で、象のように力強く前進しています。


 人々は、走行するモデルCに見入りながら声をあげます。

 クロエの隣の淑女が言います。


「まあ! 全然大きくない自動車なのに、あんなに多くの人を乗せて動くなんて、技術の進歩ってすごいわね!」

 

 タイプCは、右に方向転換します。


 隣の紳士が言います。


「いやはや、あれは凄いぞ。販売が開始したらすぐに買おう」


 その後、タイプCは時計回りに走行したり、ときどき大きくUターンしたり、左右に蛇行したりと、さまざまな動きを披露しました。


 人々をうならせる栄えある実演がしばらく続いた後、タイプCは静止しました。


 タイプCを背にして、シルクハットの社員が誇らしげに言います。


「みなさん、タイプCの走行実演はいかがだったでしょうか? きっとその機動性に驚かれたことでしょう」


 社員は、そこで言葉を切り、もったいぶったように間を置いてから言います。


「タイプCはどうして、これだけの力を持って走行することができるのでしょうか? その秘密は、最新の蒸気エンジンにあります」


 また間を置きます。


「ではでは、みなさん、本日は特別にタイプCの蒸気エンジンの内部構造をお見せしましょ! もうひとつのテントの方をご覧ください!」


 クロエはテントを注視します。社員がテントのロープを引っ張ると、テントの前面、側面が、がばっと開かれました。


 テントの中には、分解された蒸気エンジンの部品がずらっと並べられていました。


 ボルトで連結された鉄の棒。細い棒と円盤が組み合わせられた部品。見事な光沢をもつ円筒状の部品。


 少女クロエは引き寄せられるように、それらをまじまじと見ます。


 ひとつひとつの部品の前には白い板が置いてあります。その板には、それぞれの部品の名称が記されていました。


〝クランク〟〝ピストン〟〝シリンダー〟

 

 クロエは、石のようにかたまり、それらの部品を凝視して、凝視して、凝視します。


 少女の頭の中は、濃すぎるコーヒーを10杯連続で飲んだかのように、ぎりぎりと熱くなりました。




 だれが彫像を持ち去ったのか、わかりました。

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